江戸四大飢饉と言われた中でも寛永の大飢饉につづき、2番目に起こった「享保の大飢饉」。

 

西日本で起こった大飢饉で、多くの餓死者を出す事態となりました。

 

今回は、そんな『享保の大飢饉(きょうほうのだいききん)』について、どんな被害が出たのかなどわかりやすく解説していきます。

 

享保の飢饉とは?

 

享保の大飢饉とは、1731年末から1732年に起こった米の不作による大飢饉のことです。

 

その影響は中部、四国、九州北部、中でも瀬戸内海周辺の被害がもっとも大きく、西日本の米の不作が深刻な状況となり、十分な食料が確保できない事態となります。

 

その後、この大凶作が全国へと広まり、民衆の暮らしに大きな影響を与えることとなりました。

 

この時代、食料のほとんどを米に頼っていたため、米の不作は食料問題に直結するものだったのです。

 

享保の大飢饉が起こった時期と原因

 

日本において1731年の終わりから雨が降るなど悪天候がつづき、年が明けた1732年に入っても天候に恵まれませんでした。

 

夏に入っても梅雨が2か月間も明けずさらには冷夏も重なり、米が育たない事態となりました

 

この影響は中部、四国、九州北部、中でも瀬戸内海周辺の被害がもっとも大きかったとされています。

 

また、米を食い尽くすイナゴやウンカなどの害虫の大量発生も伴い、稲に多大な被害を与えました。

イナゴ・・・バッタ類の総称。稲を食べる害虫とされている。一方で、重要なタンパク源としても扱われ、信州をはじめとした地域で佃煮など食用とされている例もある。

 

ウンカ・・・体長5mmほどの昆虫。イネの害虫で、繁殖力が強く発生するとイネが食い尽くされ、水田が丸く穴が空いたように枯れる。

 

享保の大飢饉以前の米の価値

(徳川吉宗 出典:Wikipedia)

 

 

1716年に将軍となった8代目徳川吉宗は米将軍(米公方)ともよばれるほど、米の価格の安定に尽力し、享保の改革を打ち出し様々な取り組みを行いました。

 

享保の改革の内容

上米の制・・・1722~1730年のあいだに実施された制度。倹約令によって支出をおさえさせながら、臨時に大名から石高1万石につき100万石を納めさせ、かわりに参勤交代の負担を軽減させた。

 

定免法・・・米の収穫量にかかわらず、毎年一定の年貢量を納めさせる制度。これにより、幕府の収入は安定した。また、米の収穫量によって年貢率を決める方法「検見法(けみほう)」を導入した。

 

※そのほか、新田開発も押し進め、米の増産に励みました。

 

しかしその結果、米の価格が暴落することとなり、米農家はたいへんな被害をうけました。この打開策として幕府は堂島米市場を開きました。

 

常島米市場とは、1730年に大阪の常島に開かれた米市場のことで、大阪は年貢が多く集まる場所でもあり、蔵屋敷(江戸時代に大名が年貢や領内の特産物を販売するためにつくった倉庫兼家屋)におさめた年貢米を入札制によって米仲介買人に売っていました。落札者には1枚で10万石の米と交換できる米切手とよばれる証券を発行しました。

 

幕府は常島米市場への介入によって米の価格を人為的に操作しようと試みましたが、大阪の米仲買人などに猛反対されるなど、失敗に終わりました。

 

この2年後に享保の大飢饉が起こります。

 

享保の大飢饉による死者数

 

諸説ありますが、享保の大飢饉の死者数は12千人ほどの餓死者が出たともいわれています。

 

しかしこの人数は各藩が幕府に少なく報告していたのではないかというか見解もあり、19世紀前半に編纂された「御実紀」(ごじっき)、通称「徳川実紀」とよばれる全517巻にもおよぶ江戸幕府の公式史書によると・・・

 

死者は約97万人、飢餓に苦しんだ人は250万人にものぼったとされています。

 

享保の大飢饉の被害の大きさ

 

西日本の46の藩が飢饉に見舞われました。

 

当時全国に約270の藩があったと考えられますので、およそ6分の1の藩が飢餓に苦しんでいました。

 

この46藩の総石高が236万石(1万石=約1500トン)ほどで、この年に収穫された米の量は前年の27%弱の63万石ほどでしたので、到底住民の生活に必要な量には達していませんでした。

 

ちなみに1石は約150㎏で成人男性が1年間に食べる米の量を基準としています。

 

通常約236万人の男性が1年間食べていける収穫量があったはずが、63万人分しか獲れなかったということは、4人中3人ほどが餓死する計算になりますので、大変な飢饉であったことがうかがえます。

 

享保の大飢饉の影響

 

 

米の不作によって市場に出回る米が激減し、米の価格の高騰も深刻な問題となりました。

 

これに大打撃をうけた民衆のあいだには、「米の値段が上がった原因は米商人である高間伝兵衛と将軍が協力して、米を買い占めているせいだ」といううわさが広まり、1733年には打ちこわしが起こりました。

 

この享保の打ちこわしは、1733年の正月に約1700人が高間伝兵衛の自宅を襲い、家財道具や米俵を川に投げ入れるなどして多くの被害がでました。

 

 

高間自身は房総の家に戻っていたため無傷。その後、高間は持っていた多量の米を放出し、米の価格を安定させようとしました。

 

この打ちこわしのあと、幕府はこの打ちこわしにかかわった中心人物を流罪に処しました。

 

幕府もこの事態に対策を打とうと、囲い米を解放し価格を下げようとしました。

 

囲い米とは、江戸時代に江戸幕府や各藩が万が一に備えて米や穀物などを社倉(江戸時代に設けられ、庶民の収入に応じて貯蔵、貸与などの目的で自治的に管理されたもの)や義倉(国内の要所に設けられた倉庫で、災害や飢饉に備えて米や穀物などの食料を庶民から集めたり、富者から寄付してもらったりして貯蔵したもの)に蓄えて、万が一に備えた制度のことです。

 

 

この制度は情勢が不安定だったため、飢饉に備えてというよりも戦などの軍事的な事態への備えた兵糧米としての役割が大きい部分もありました。

 

しかし、米の価格を下げることはできず、失敗に終わりました。

 

享保の大飢饉の被害が少なかった大三島

 

現在の愛媛県今治市に位置する大三島(おおみしま)では、下見吉十郎(あさみ きちじゅうろう)という六部僧によって広められたサツマイモを栽培していたため、飢えに苦しむことがありませんでした。

 

サツマイモは干ばつに強く、肥料なども少なくて済むので育てやすい野菜でした。

 

長期間にわたって収穫が可能で、栄養価も高く食糧に困ったときには大変重宝する食材です。

 

このことから将軍徳川吉宗は、各地でサツマイモの栽培を奨励するようになり、東日本にも広まっていきました。

 

まとめ

 1731年末から1732年に起こった米の不作による大飢饉で、その影響は中部、四国、九州北部、中でも瀬戸内海周辺の被害がもっとも大きく、全国に広がる大規模なものになった。

 原因は長雨と冷夏、イナゴやウンカなどの害虫の大量発生である。

 諸説あるが、享保の大飢饉の死者数は12千人とも97万人弱ともいわれ、飢餓に苦しんだ人々は250万人にも及んだ。

 西日本46藩の総石高約236万石(1万石=約1500トン)のうち、この年に収穫された米の量は前年の27%弱の63万石ほどだった。

 米の価格が高騰した原因が米商人の高間伝兵衛と徳川吉宗による米の買い占めのせいだとのうわさが広まり、高間の家が襲われる打ちこわしが起こった。

 幕府は囲い米を放出するなど、米価の引き下げを試みるが失敗に終わる。

 飢饉の被害が少なかった愛媛県大三島にならい、比較的育てやすいサツマイモの栽培を奨励し、東日本にも広まっていった。




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