明治維新で抜群の活躍をした3人を『維新の三傑(さんけつ)』と呼びます。

 

長州の木戸孝允(きどたかよし)、薩摩の大久保利通(おおくぼとしみち)と西郷隆盛(さいごうたかもり)の3人です。

 

 

この三人は1877年の前後に相次いでこの世を去りました。1877年は西南戦争が起きた年です。

 

幕末・維新の動乱を潜り抜けてきたこの3人に、いったい何が起きたというのでしょうか?

 

今回は西南戦争の原因・経過・結果・影響を簡単にわかりやすく解説し、維新三傑の最期についてもまとめていきます。

 

西南戦争とは?

(鹿児島暴徒出陣図 出典:Wikipedia

 

 

西南戦争とは、1877年の2月から9月にかけて起きた最大・最後の士族反乱のことです。

 

鹿児島県の私学校生を中心とした薩摩士族が、西郷隆盛をリーダーとして反乱を起こしました。

 

しかし、さいごは政府軍に追い込まれ、西郷は切腹することになります。

 

この戦争は、日本全体に多大な影響を与えることになりました。

 

西南戦争が起こった背景と原因

(アドアルド作・西郷隆盛 出典:Wikipedia

①次々と出される新政策

新政府は旧幕府を滅ぼしたものの、その支配地は全国の4分の1強に過ぎませんでした。

 

全国を完全に支配するため、版籍奉還廃藩置県を実施し、中央集権化を進めることになります。

 

この結果、各藩の武士たちは士族とされ家禄(給料)が支払われました。また、税制面では地租改正を実施し収入の増加をはかりました。

 

 

②相次ぐ農民一揆

1972年に出された学制、1873年に出された徴兵令・地租改正は農民たちに重い負担となりました。

 

彼らは全国各地で一揆をおこします。

 

それぞれ、学制反対一揆血税一揆地租改正反対一揆と呼び、江戸時代の一揆とは区別して呼ばれます。

 

 

③士族の不満(一番の原因)

政府は急激に江戸時代の制度を改めていきました。

 

戦うことが存在意義といってもよい武士たちに頼ることなく、農民からも兵を集める徴兵令と武士から刀を取り上げる廃刀令は武士の存在意義を無くしていきました。

 

国の支出の30%近くを占め、財政を圧迫していた士族の給与(家禄)も縮小・廃止の方向へと動きます。

 

このため、中・下級士族たちは生活に困るようになりました。(秩禄処分)

 

 

④明治六年の政変

1871年、岩倉使節団が欧米に向けて旅立ちました。

 

岩倉具視・大久保利通・木戸孝允・伊藤博文など多くの重要人物を含んでいました。

 

使節団が帰国する前の1872年、留守を預かる西郷隆盛らの留守政府は朝鮮に対して武力を使ってでも開国させようとしていました(征韓論)。

 

 

帰国した大久保らは国内の統治を優先するべきだ(内治派)としてこの方針に強く反対します。

 

結局、西郷や征韓論を唱えた人々(征韓派)は政府を去って多くは郷里に戻りました。

 

これを明治六年の政変といいます。

 

 

⑤士族反乱

1874年、郷里の佐賀に戻っていた江藤新平が大規模な反乱を起こしました(佐賀の乱)。

 

 

しかし、士族約1万2000人が参加しましたが、政府によって鎮圧されます。

 

二年後の1876年には廃刀令や秩禄処分を不満とする士族たちが反乱を起こしました(秋月の乱・神風連の乱)が、これも鎮圧されます。

 

 

1876年にはついにかつての長州藩だった山口県でも前原一誠が反乱を起こしました(萩の乱)。

 

 

いずれの反乱も政府に鎮圧されましたが、政府が最も恐れたのが鹿児島に帰郷した西郷隆盛の動きでした。

 

⑥帰郷後の西郷

征韓論に敗れて帰郷した西郷は1874年に鹿児島に私学校を設立しました。

 

現代の私立学校とは違い、銃隊学校・砲隊学校からなり、青少年に軍事・思想教育を行うものでした。

 

県令の大山綱良も支持し、県内の市長や警察官は私学校の幹部が勤めました。

 

このため、西南戦争までの鹿児島県政は中央政府とは無関係に私学校の関係者によって行われました。

 

西南戦争の勃発。経過と結果

(西郷隆盛とその将兵たち、西南戦争にて 出典:Wikipedia

①戦争のきっかけ

1877年、鹿児島での動きを警戒した政府は鹿児島においてある武器弾薬を大阪に移転させようとしました。

 

これに反発した私学校生徒らは、ついに武力反乱に動き出します。

 

西郷はこの動きを抑えることができず、自らが首領となって挙兵しました。

 

熊本城攻撃の失敗

鹿児島を出発した1万3000人の西郷軍は熊本城を包囲します。

 

ところが、熊本城は容易に攻め落とすことができません。

 

その間に九州北部から政府軍の援軍が到着。西郷軍の北上は食い止められてしまいました。

 

田原坂の戦い

(田原坂の戦い。左が官軍、右が西郷軍)

 

 

兵力を増強した政府軍は西郷軍の防衛ラインを突破するため軍を田原坂に向けました。

 

ところが、西郷軍は銃撃だけでなく抜刀突撃を繰り返してきました。

 

農民からの徴兵部隊は白兵戦になれていません。

 

そのため、西郷軍の抜刀攻撃対抗できる元士族の警察官からなる特別部隊が編成されることになります。

 

これが警視庁抜刀隊です。

 

彼らは西郷軍と互角の戦いを繰り広げ、政府軍が田原坂を突破する助けになりました。

 

田原坂を突破された西郷軍は敗退の一途をたどり鹿児島に押し戻されるこになります。

 

④西南戦争の終結

(城山を取り囲む政府軍の要塞)

 

 

西郷隆盛らは鹿児島市の城山に立てこもり最後の抵抗をしました。

 

政府軍に総攻撃された西郷は銃弾を浴びて負傷した時に「もう、ここらでよかろう」といって切腹します。

 

こうして、西南戦争は終結しました。

 

西南戦争の影響

(西郷隆盛が書いた『敬天愛人』。天を敬い、人を愛するという意味 出典:Wikipedia

①政治的影響

西南戦争の敗北は、政府に不満を持つ士族たちに武力で政府を倒すことは不可能であることを分からせることになりました。

 

これを機に、士族たちは武力ではなく、言論で政府と戦う自由民権運動に参加するようになります。

 

 

②経済的影響

西南戦争は収入がまだ不安定だった新政府にとって巨額の支出となりました。

 

支払いのために大量の紙幣が発行されることで、紙幣の価値が落ちてインフレになりました。

 

一方で政府に協力した郵便汽船三菱会社(三菱)は戦争により巨額の利益を得て、のちに財閥に成長する基盤を築きました。

 

 

③社会的影響

徴兵制で集めた農民中心の兵士たちが、戦いのプロとみなされていた士族、その中でも最強と言われた薩摩士族や西郷隆盛に勝利したことは大きな衝撃でした。

 

戦いは武士だけが行えるものではないことを示したもので、これにより士族の没落は決定的なものとなりました。

 

まとめ

 西南戦争は1877年に西郷隆盛をリーダーとする鹿児島県士族による最大最期の士族反乱のこと。

 版籍奉還や廃藩置県といった大きな社会変化も反乱の原因の一つとなった。

 一番の大きな原因は廃刀令や秩禄処分などの士族切り捨ての政策。

 征韓論で有力者が帰郷したことで彼らを中心とした反乱が相次いだ。

 西南戦争後、士族は自由民権運動で政府と戦う。

 西南戦争のせいで、インフレになってしまった。

 徴兵軍隊が士族を打ち破ることで士族の没落は決定的なものになった。

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