さらっと言われるとつい間違えてしまいがちなのが、この鎮西奉行・鎮西探題・九州探題の区別です。

 

実際、間違って覚えていたという人も多いのではないでしょうか?

 

今回はこの3つの機関『鎮西奉行・鎮西探題・九州探題の違い』について簡単にわかりやすく解説していきます。

 

鎮西奉行・鎮西探題・九州探題の違い

 

 

3つとも九州に設置された統治機関という意味では同じですが、設置された時期と目的が異なっています。

それぞれの違い

鎮西奉行・・・鎌倉幕府の機関。源義経および平氏残党の追捕と九州御家人統率のため1185、天野遠景(あまのとおかげ)が派遣され、1186年に鎮西奉行と称した。

鎮西探題・・・鎌倉幕府の機関。蒙古襲来後の1293西国防備と九州統治強化のため博多に派遣された鎌倉幕府の役職。北条氏一族が任命され、軍事・行政・裁判の処理にあたった。

九州探題・・・室町幕府の機関。1336九州に敗走した足利尊氏が上洛する時、一色範氏を九州経営にあたらせたのが始まりで、九州の守護大名統制と南朝勢力討伐とを任務とした

 

大雑把にいうと、鎮西奉行は鎌倉幕府成立期、鎮西探題は蒙古襲来後、九州探題は南北朝時代にそれぞれ設置されました。

 

設置された理由もそれぞれ異なっていますので、それまでの経緯をたどりながら説明していきます。

 

鎮西奉行について詳しく

わざわざ項目を作っておいてなんですが、この鎮西奉行は他2つと比べると影が薄いです。

 

というのも、この機関は後にできる鎮西探題によって権限が縮小されるというか、取って代わられるようになります。

 

最初に任命された天野遠景の次の後継者については、専門家の間でも意見が分かれていて、正直実態がよく分からない機関でもあります。そういう事情もありますので、こちらについてはさらっと説明します。

 

前述の通り、この役職は1185年、天野遠景が派遣され、1186年に鎮西奉行と称しました。

 

遠景が鎮西奉行に任じられた理由は、源義経の九州下向に備えることとその探索にありました。

 

その目的が消滅したあとは、鎌倉幕府による九州統治のための出先機関として機能することになりました。

 

遠景はその目的遂行のため九州全般の御家人に対し軍事的統治を行うとともに、大宰府の実権を掌握することによって、平家の勢力が強かった九州の鎌倉幕府支配への組み入れを図りました。

 

蒙古襲来後は、鎮西探題の設置により権限は縮小され、その実態は不明です。

 

ですので、鎮西奉行については、鎌倉幕府成立期つまり1185年に、義経の追捕のために作られたと覚えておけばとりあえず大丈夫です。

 

鎮西探題について詳しく

鎮西探題は、蒙古襲来後の1293年、西国防備と九州統治強化のため博多に派遣された鎌倉幕府の役職です。

 

こういってしまうと、同じ時期に設置された異国警固番役と被る人もいるかもしれません。

 

異国警固番役との違いも含め、詳しく説明していきます。

 

①鎮西探題が設置されるまで

鎌倉幕府は政権成立直後、九州統治機関として鎮西奉行を置き、天野遠景を鎮西奉行に任じました。

 

しかし、遠景が解任されたあとは九州全般を統治する機関は消滅し、各国守護がもっぱら管国内のその任にあたっていたとされています。

 

ところが承久の乱後、京都に六波羅探題が設置されたことによって、九州の軍事面の御家人統率、および訴訟裁判も六波羅探題が掌握することになりました。

 

その後、蒙古襲来後、幕府は九州御家人を指揮して異国警固を強化するため、北条氏一族を九州に下向させ、その任にあたらせました。

 

さらに九州御家人と(異国警固にあたるために九州に下向した)東国御家人を異国警固に専念させるため、九州御家人らが関東・六波羅探題へ訴訟をおこすことを禁じましたが、その代わりに、九州に同じく訴訟を扱う機関を設置することが必要になりました。

 

そこで、九州において裁判を担当する鎮西探題の設置が行われました。結局、この機関は1333年、幕府と共に滅亡してしまいます。

 

鎮西探題と異国警固番役の違い

1の説明でピンと来た人もいると思いますが、要するに鎮西探題は主に行政・裁判の任務にあたり、異国警固番役はモンゴル再襲来に対する警備を主に担当しました。

 

九州の政府・裁判所的な役割が鎮西探題、警察が異国警固番役だったわけです。

 

まとめると、鎮西探題は、蒙古襲来後に九州の統治を強化するためにおかれた統治機関といえます。

 

鎮西探題は北条氏一族が任命されたので、他との違いとしてこれもおさえておくといいですね。

 

九州探題について詳しく

九州探題は、室町幕府の機関で、九州の守護大名統制と南朝勢力討伐を任務としました。

 

これだけは室町幕府の機関ですので、一言で違いが説明しやすいです。

 

そもそも九州探題は鎌倉幕府の鎮西探題にならって設置されたものですので、この九州探題も鎮西探題と呼ぶことがあります。

 

しかし、一応鎌倉幕府が設置したのが鎮西探題、室町幕府が設置したのが九州探題と区別されています。

 

九州探題は、1336年、九州に敗走した足利尊氏が再び東上する際、一色範氏(いっしきのりうじ)をとどめて九州幕軍の最高責任者として九州経営にあたらせたのが始まりです。

 

探題の権限は、幕府方の武士に対する軍事指揮を中核として、民事関係の訴訟については、双方の内容を調査して幕府に報告し、この裁定を施行することでした。

 

しばらくは九州の統治はままならない状態でしたが、13712月、今川貞世(さだよ)が挙用されその任につくや、しだいに宮方を制圧し、九州経営が進められました。

 

当時、南朝勢力の全面的衰退の中で、ひとり九州の宮方が威を振るっており、足利義満の統一政権は九州の宮方制圧なしには確立しない状態でした。今川貞世の功績は大きいと言えます。

 

1396年渋川満頼(みつより)がかわり、以後渋川氏が世襲しましたが、応仁の乱(146777)後はほとんど有名無実となってしまいます。

 

まとめると、九州探題は室町幕府の機関であり、九州の守護大名統制と南朝勢力討伐がメインの任務でした。

 

今川貞世が九州の南朝勢力を打倒、後は渋川氏が世襲した、応仁の乱後は有名無実となるというところまで覚えておくとバッチリです。

 

まとめ

・鎮西奉行、鎮西探題は鎌倉幕府の機関。九州探題は室町幕府の機関。

・鎮西奉行は源義経・平氏残党の追捕と九州御家人統率のため、1185年に設置された。

・鎮西探題は蒙古襲来後の1293年、九州統治強化のために設置された。

・九州探題は1336年、九州の守護大名統制と南朝勢力討伐のために設置された。




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