【日露戦争とは】簡単に分かりやすく解説!!原因や勝敗結果・その後の影響など

 

近代日本史の中でターニングポイントとなった日露戦争。この戦争によって日本は世界から注目されることになります。

 

今回はそんな『日露戦争』について簡単にわかりやすく解説していきます。

 

日露戦争とは?

(日露戦争 出典:Wikipedia

 

 

日露戦争とは、1904年(明治37年)から1905年(明治38年)に渡って日本とロシアとの間で行われた戦争のことです。

 

当時ロシアは日本に対して三国干渉や朝鮮へと影響力などを強めており、日本は朝鮮半島満州の権益を守るためロシアへの攻撃を決定しました。

 

日露戦争の主な戦争は旅順攻略戦、奉天会戦、日本海海戦がありましたが、次第に日本とロシアは互いに戦争継続が困難となり、1905年のポーツマス条約により戦争は終結しました。

 

この戦争によって日本は世界から列強と認められるようになりました。

 

日露戦争が起こった背景や原因

①三国干渉とロシアの不凍港ゲット作戦

1894年に始まった日清戦争に勝利した日本は台湾とその近くの澎湖諸島、さらに遼東半島を日本の領土とするという条約である下関条約を結び、日本は一気に大国にのし上がることができました。

 

 

しかし、これに対して待ったをかけたのがロシア。

 

ロシアは「遼東半島を日本の領土にするのはかわいそうだろ!返してあげなさい!」という形で日本にいちゃもんをつけて日本に無理矢理遼東半島を清に返還させます。

 

これをロシアとドイツとフランスの三国がやったことから三国干渉と言います。

 

 

しかし、ロシアの目的は本当に清に領土を返してあげたかったことではなく、その返してもらった遼東半島をロシアの領土にするためでした。

 

ロシアは返してもらった遼東半島をロシアの租借地その近くの鉄道を建設する権利をゲットします。

 

当時のロシアは港が凍らなくて一年中貿易することができる不凍港を手に入れることに必死でした。

 

さらに、ロシアはそこから朝鮮や清の領土得るという南下政策を取り日本を威圧していました。

 

②日本のロシアへと敵対感情

(反ロシアの風刺地図 出典:Wikipedia

 

 

こうして遼東半島を返さなければいけなくなった日本。

 

日本国内では「ロシアふざけんじゃねぇ!」という声一色となりロシアを潰さなければいけないという強硬派の力が強くなってしまいます

 

日本は日清戦争で得た賠償金の86%を軍事費につぎ込み軍隊をどんどん強くしていき、ロシアとの対決に備えていました。

 

 

そんな時に義和団事件という清国内で起きた内乱が勃発し、日本とロシアなどの列強はその内乱を鎮圧することになります。

 

 

ロシアはこれをチャンスと見て義和団事件の後、満州という地域における影響力を強め、さらに朝鮮に対しても鉱山の運営権を獲得するなどの行動にでます。

 

朝鮮といえば日本が欲しくて欲しくてたまらなかったところ。ロシアに取られると次は日本が危なくなります。

 

このような理由もあり、もうロシアと日本の戦争は避けられなくなっていきました。

 

③日英同盟の成立

日本とロシアの関係が悪くなっている頃。もう一国ロシアとの関係が悪い国がありました。

 

当時、ロシアは朝鮮だけではなく、世界各地で南下政策を行なっていましたが、この時クリミア戦争でロシアとイギリスが戦争して以来ロシアとイギリスの関係は冷え切っていました。

 

当時のイギリスはインドなどの海外に多くの植民地を持っており、この頃は世界一の領土を持つ国でしたが、その国土があまりにも広すぎてアジアにまで勢力を広げることに苦労していました。

 

そこでイギリスは当時目覚ましい発展を遂げていた日本と同盟を結んでロシアに対抗しながら、アジア方面の事は日本に任せようとします。

 

そして1900年に日英同盟が成立。日本はイギリスという強力な味方ができ、ロシアとの戦争準備は着々と進んでいきました。

 

 

しかし、伊藤博文はロシアとの友好を保とうと日露協商という関係を結び、なんとか対決を回避しようとする動きもありました。

 

 

日露戦争の勃発

(朝鮮半島を進軍する日本軍 出典:Wikipedia)

①日露戦争の開始と仁川沖海戦

こうして準備が整った日本は、日露協商を破綻すると遂に1904年にロシアに対して宣戦布告。旅順港を攻撃して日露戦争が始まりました。

 

日本はソウル近郊の仁川に上陸し、日韓議定書を結んで韓国を無理矢理日本の影響下に置きます。

 

さらに仁川沖にてロシアとの艦隊と衝突。仁川沖海戦が起こりますが、これは日本の勝利に終わり、日本は朝鮮を確保することに成功しました。

 

 

(仁川沖海戦"戦闘を繰り広げている様子" 出典:Wikipedia)

 

②旅順攻略戦

日本には攻略しなければいけない地域がひとつありました。旅順(りょじゅん)です。

 

旅順はこの頃ロシアの重要補給地点となっておりここを占領すれば戦争に勝利できると考えていました。

 

そこで日本は旅順港を封鎖してロシアの補給を切らそうとします。

 

しかし、失敗。さらにロシアが当時最強と呼ばれていたバルチック艦隊が旅順に向かっているという情報が入ると軍人である乃木希典は旅順に総攻撃を開始します。

 

 

(乃木希典 出典:Wikipedia

 

 

しかし、この旅順はそう簡単には占領できない要塞となっており、この攻撃も失敗。日本は大量の戦死者を出してしまいます。

 

この時、日本国内で与謝野晶子がこの旅順で戦っている弟を思い『君死にたまふことなかれ』という詩を残しています。

 

乃木は旅順をなんとか攻略するために旅順近くにあった丘である203高地を攻略目標として攻撃を開始します。

 

この攻撃は大きな犠牲を出しながらも成功して203高地を確保します。

 

(203高地 出典:Wikipedia

 

 

こうして丘の上から砲撃できるようになり戦況は日本有利と変わります。

 

そしてついに12月10日に旅順にいたロシア軍は降伏。旅順は日本によって占領されました。

 

ちなみに日本の損害は戦死者は6万人となっており、乃木希典の息子たちもこの旅順攻略戦で亡くなっていました。

 

③奉天会戦

(川を渡る奉天のロシア軍 出典:Wikipedia)

 

 

日本は満州を確保するため、24万の大軍で奉天(今の瀋陽)に攻めます。

 

日本軍はなんとか奉天を占領。ロシアは満州の北部に撤退しました。

 

ちなみに、この奉天会戦は両軍合わせて60万と大規模な戦争の1つに数えられています。

 

④日本海海戦

旅順をなんとか手に入れた日本でしたが、次の脅威がすぐそこまで迫っていました。

 

なんとロシアのバルチック艦隊が旅順港ではなく、ウラジオストクに入港するという情報を日本は手に入れます。

 

もしバルチック艦隊がウラジオストクに入港したものなら、満州で戦っているロシア軍に補給が入り日本の勝利は絶望的となります。

 

それだけはなんとかして防ぎたい日本軍。そこで日本の連合艦隊は日本海沖でバルチック艦隊を迎え撃とうと計画します。

 

この時の連合艦隊の艦長は東郷平八郎という人で肉じゃがを作った人とも言われています。

 

 

(東郷 平八郎 出典:Wikipedia)

 

 

東郷はバルチック艦隊との戦いで勝てる理由を見つけていました。

 

たしかにバルチック艦隊は強かったのですが、北極海は当時凍っており日本海に向かうには大西洋とインド洋を経由しなければいけなかったのです

 

さらに補給地点もこの時航路の沿岸がほとんどが日本と同盟を結んでいたイギリスの領地だったため補給することがありませんでした。

 

そのためバルチック艦隊は万全の状態で海戦を迎えることはできませんでした。

 

そして5月12日に連合艦隊はバルチック艦隊を発見。日本海海戦が始まります。

 

 

(バルチック艦隊との戦いに向かう連合艦隊 出典:Wikipedia

 

 

連合艦隊はバルチック艦隊に近づき攻撃すると思いきや、なんと急激に150度の大カーブを行います。軍艦が急激に150度もカーブすることになるとその間は攻撃することはできなくなり、ただの攻撃の的になってしまいます。

 

ロシア側からしたらこの時勝利を確信したと思いますが、なんとこの時天候が荒天だったため攻撃が当たらない。

 

さらにカーブを終えた連合艦隊の旗艦(リーダーの軍艦)がバルチック艦隊に突撃。撃った大砲がよりにもよって司令室にあたりバルチック艦隊は大混乱状態となります。

 

こうなったらもうあとは殲滅戦。こうして日本海海戦はバルチック艦隊は軍艦一隻がかろうじてウラジオストクに入ったのみで文字通り壊滅しました。

 

一方、日本は軍艦一隻が沈没したのみでほとんど無傷でありまさに日本の完全勝利で終わりました。

 

日露戦争の勝敗結果とポーツマス条約

(ポーツマス会議の様子 出典:Wikipedia

 

 

ロシアは最後の希望であったバルチック艦隊が日本海海戦に負け、さらに国内では血の日曜日事件が起きたことによってもう戦争することはできなくなってしまいました。

 

対する日本も戦争には連戦連勝しているものの、この時18億(日本の国家予算30年分)という莫大な費用をつぎ込んでおりもはや戦争を継続することは不可能でした。

 

これを見たアメリカのセオドア・ルーズベルト大統領は講和を仲介。アメリカのポーツマスで講和条約が結ばれました。

 

 

ポーツマス条約の内容は・・・

  • 韓国を日本の影響下にすることをロシアは認める
  • 旅順港を日本の租借地とする
  • 南樺太を日本の領土とし、オホーツク海における漁業権を認める
  • 賠償金は支払わない

というもので日露戦争自体は引き分けでしたが、実質的には日本の勝利に終わりました。

 

日露戦争の影響

 

 

日本は強国ロシアとの戦争に勝利したことによって世界からアジア唯一の列強国としてついに認められることになります。

 

1911年にはアメリカとの間で関税自主権が回復

 

 

また、のちに作られる国際連盟では常任理事国の一つとなりました。

 

しかし、18億もつぎ込んだのに賠償金が支払らなかったことによって国民は大激怒。

 

日比谷で焼き打ち事件が起こり一時混乱状態となりました。

 

しかし、アジア唯一の列強となった日本は当時ヨーロッパの植民地となっていたアジアの国々の希望の星となり日本はアジアでの影響力を伸ばしていくことになるのです。

 

一方ロシアは日露戦争に負けたことによって国内は大混乱。ロシア革命へとつながっていくのです。

 

 

まとめ

 日露戦争とは、1904年2月から1905年9月にかけて大日本帝国ロシア帝国との間で行われた戦争のこと。

 ロシアは不凍港を得るために日本に対して三国干渉や朝鮮へと影響力などを強めていた。

 日露戦争の主な戦争は旅順攻略戦、奉天会戦、日本海海戦。

 日本とロシアは互いに戦争継続が困難となり1905年ポーツマス条約を結び終結した。

 日露戦争後は「アメリカとの間で関税自主権が回復」「日比谷で焼き打ち事件」「ロシア革命」などが起こった。