テストや試験にもよく出る頻出単語ともいっていいのが自由民権運動です。

 

だれが行なったのか、どうして起こったのか、そして資料集などにも絵画が載っていたりしてこれは何を表すかなどといった記述式の問題もでたりします。

 

今回はそんな問題にもラクラク回答できるように『自由民権運動(じゆうみんけんうんどう)』について簡単にわかりやすく解説していきたいと思います。

 

自由民権運動とは?

(自由民権運動の演説会 出典:blogs.yahoo.co.jp

 

 

自由民権運動は、明治時代の日本で行われた政治運動、社会運動のことです。

 

国民の自由と権利を求めた運動と言い換えることもできます。

 

農民、士族など関係なく誰でも自由な権利を主張していいだろうということで立ち上あがるのです。

 

自由民権運動の内容

 

 

ではこの政治運動や、社会運動とはどんな内容だったのかみていきましょう。

 

政治運動においては、民衆の意見が用いられる議会制政治を目指そうよ!庶民だって政治に参加するべきだ!と主張をした運動です。

 

運動が起こるのは条約改正の問題が起こったり、政治に関しての意見書などが提出されたりなど大きな動きがあるとそれに対して意見をする派閥が運動をおこしそれを阻止したり、より違うやり方の方がいいのではないか!と主張したりするという流れになります。

 

国民全体が政治家や思想家を中心にして自由な発想、思想そして国をもそうあるべきだ!と意見をいえる世の中になってきているのですね。

 

今でいうと、デモや抗議運動のようなものとして覚えておくとわかりやすいです。

 

現代ではなかなか考えにくいですが・・・

 

明治時代は日本という国がようやく国家として確立し、動いていこうという時期ですので、制度をどうやって決めるのか。果たしてその制度とはどんなものがよいの。だれがどうやって国を作っていくのか。

 

など、政府が動きを見せつつも、それに反応して民衆も意見をいうまさに国がたちあがるスタートの時期といってもいいですね。

 

そのためいろいろな意見がでると、やがてそれが暴動になったりある意見がでればその反対意見がでて衝突するというのも日常茶飯事です。

 

また、それらとは別次元で全く別の思想なども立ちあがったりと世の中がめまぐるしく動いているそんな時代です。

 

自由民権運動のきっかけと流れ

(板垣退助 出典:Wikipedia

 

 

自由民権運動の中心人物は、板垣退助。そもそも板垣退助は「征韓論」を唱えていました。

 

 

この征韓論とは、簡単に言えば「武力を持って朝鮮を開国しようとする主張」です。

 

そして、板垣退助には、西郷隆盛や江藤新平、後藤象二郎、福島種臣という仲間いました。

 

彼らの意見は隣の国の朝鮮に不満があったため、なんとかして朝鮮と国交を回復をしようじゃないかというものでした。

 

しかし、実際に海外に視察にいった政府の人間である岩倉具視、大久保利通、木戸孝允、伊藤博文に加えて留学生が60名ほどからNGをだされます。

 

 

(岩倉使節団:左から木戸孝允、山口尚芳、岩倉具視、伊藤博文、大久保利通)

 

 

武力でどうにかしようなんて時代遅れだ!また朝鮮をどうしようというよりも先に、国内の政治制度を充実させなければならないと言われてしまいます。

 

海外視察の彼らはアメリカやイギリス、フランス、ドイツ、ロシアを2年間かけて渡り歩き視察します。

 

これは海外の進んだ文化や制度など勉強してくることを目的としていました。

 

そのため、板垣チームと政府とは敵対するようになってしまいます。

 

これが自由民権運動のきっかけとなってしまいました。

 

もっと自由に発言したり権利を国民にも与えるべきだという主張につながるのです。

 

そして板垣は、『政府は国民みんなにたくさんの義務を課す一方で、国民の意見を聞かないのは変だ!国家をつくって国民の意思・考えを取り入れた政治を行うべきだ!』と演説をはじめるようになります。

 

そして、その運動がだんだんと各地に広がっていき、力ずくではなくて言葉で国に請願しよう、という人々が集まって政治活動となって、これが自由民権運動といわれるようになったのです。

 

自由民権運動、板垣退助というと【板垣シスとも、自由は死せず】ですね。

 

板垣が死んでも国民の自由は死なないといった意味です。

 

こんなにも民衆が参加するための政治を主張した板垣さん。反板垣退助の人々に襲われてしまうのです。(岐阜事件

 

自由民権運動の影響

 

自由民権運動によって、少しずつ政治も変わっていきます。

 

「地租軽減」「国会開設」「条約改正」など。

 

 

また、思想や主張も多く出始めたため、政治団体が現れるようになります。

 

そして国会を開設するように明治政府に要求するようになったのです。

 

政府までも動かしてしまう民衆の運動だったということがわかりますね。

 

主導者である板垣退助も、演説を繰り返し人々に呼びかけます。

 

現代でいうところの選挙カーのような感じですね。板垣さんは、積極的に演説会も行い日本各地で自由や権利について主張を繰り返してきました。

 

そのため、各地で自由民権を主張した結社は2000を超えたとも言われています。

 

これはとってもすごいことで、自由民権をモットーに団結したいわゆるチームが2000を超えたということです。

 

それだけ板垣さんの演説がすごいものであったとも言えるし、人々も自由と権利を求めていたと言えます。

 

自由民権運動の結果

 

自由民権運動を行う人々の中に過激さが加わってしまったことによって、運動そのものの支持を失って急速に衰退していくこととなりました。

 

しかし、自由民権運動がただの暴動であったというのではありません。きちんと結果を残すことができているんです。

 

例えば、国会開設が実現したのも自由民権運動がきっかけです。

 

民衆の動きが国を動かしたという歴史的な事柄です。

 

まとめ

 自由民権運動とは板垣退助が主導した自由を求める運動のこと。

 求めた自由とは、国民ももっと政治に参加するべきだという内容で、実際に自由民権運動によって国会開設が実現した。

 自由民権運動は各地に広まったものの、だんだんと武力でなんとかすればいいと考える人々もでてきてしまい、過激な運動に変わって言ってしまった。

 過激な運動になると運動そのものが衰退していってしまった。

 「板垣死すとも自由は死せず」というフレーズが有名。




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