日本で初めて鉄砲が使われた戦いとして知られる長篠の戦い。

 

三河北部(愛知)の拠点、長篠城をめぐって織田信長、徳川家康の連合軍と武田勝頼が戦いました。

 

今回は日本史の教科書にも太字で登場する頻出用語でもある『長篠の戦い』ついて簡単にわかりやすく解説していきます。

 

長篠の戦いとは 

(長篠の戦い 出典:Wikipedia

 

 

長篠の戦いとは、1575521、三河の長篠(愛知)で起こった織田信長・徳川家康の連合軍..武田信玄の息子武田勝頼の戦い。

 

戦場となったのは、長篠城と設楽原(したらがはら)の2か所。

 

日本で初めて鉄砲が使われたことで知られているのは設楽原での戦いです。

 

また、これまで、教科書などでは、織田と徳川の連合軍が3万、武田軍が15000といわれてきましたが、実際の数はわかっていません。

 

長篠の戦いの原因

(武田信玄の息子『武田勝頼』 出典:Wikipedia

 

 

長篠の戦いが起こった原因は、徳川家康の領地だった三河北部の重要拠点である長篠城を武田勝頼が手に入れようとしたことです。

 

勝頼の父で、“甲斐の虎”と恐れられた最強の戦国武将武田信玄は、1573年三方原(みかたはら)の戦いで徳川家康を撃破しました。

 

しかし、1573年に信玄は急死してしまい、勝頼が武田家を継ぐことになりました。

 

勝頼は信玄の志しを引き継ぎ、1574年に尾張・三河・遠江への侵攻の拠点となる信長の領地「美濃の明知城」、さらに父信玄でも攻め落とせなかった家康の領地「遠江の高天神城(たかてんじんじょう)」、1575年には三河の足助城など、次々と攻め落としていきました。

 

連戦連勝で勢いに乗り、攻撃の手を緩めない勝頼が、次に狙いを定めたのが家康の領地「三河北部の重要拠点長篠城」でした。

 

武田軍が長篠城を手に入れることで、三河北部全域を家康から奪い取る足掛かりとなり、さらに三河東部、その隣にある遠江へと家康の領地に侵攻し、武田の支配を広げていくことも現実味を帯びてくるわけです。

 

そんな野望を抱きつつ、勝頼率いる武田軍は長篠城へと進軍し、城の周りを取り囲むと何度も攻撃を仕掛けました。

 

長篠城の城主奥平信昌(おくだいらのぶまさ)は500名という少ない兵でありながら、なんとか耐え抜き、家康の助けを待ちました。

 

奥平信昌から救援要請を受けた家康は、同盟を結んでいた織田信長にも出兵を依頼し、織田徳川連合軍として長篠の戦いへ臨みました。

 

長篠の戦いの経過と結果

長篠合戦図屏風 出典:Wikipedia)

準備万端の織田&徳川連合軍

織田徳川の連合軍側は、長篠の設楽原で武田軍を迎え撃つ準備を始めました。

 

設楽原は、北に雁峰山(がんぼうさん)がそびえ、南に豊川が流れるという地形。

 

そのため、信長たちはサイドからの敵の侵入を防ぐ対策として柵や空堀(からぼり)、土の壁、斜面を削った人工の断崖などをつくりました。

 

これで正面に武田軍を誘いこめば、連合軍の有利に戦えるというわけです。

 

さらに、抜け目のない信長は決戦の前日、本隊とは別の4,000の兵からなる機動部隊をひそかに長篠城に送っていました。

 

設楽原での開戦とほぼ同時に、機動部隊が長篠城を包囲する武田軍を攻撃し、長篠城を奪還しようという作戦でした。

 

②勝頼の自信が裏目に

一方の武田軍は、織田徳川の連合軍との戦いを控え、家臣の間で意見が分かれました。

 

信玄の時代から仕えてきた重臣たちは、「敵は大軍、今回は撤退するべき」「戦うなら、長篠城を奪ってから、連合軍を長篠城で迎え撃つべき」と提案します。

 

しかし勝頼が選んだのは、重臣たちが反対した、勝頼の側近たちの意見、「設楽原へ軍勢を動かし攻撃する」というものでした。

 

勝頼のこの無謀ともいえる決断の裏には、何かと比べられてきた父信玄もできなかった家康の首をとるチャンスが目の前にあったこと、

 

そして長篠の戦いの前、信長や家康に連戦連勝していたという自信、設楽原で連合軍が動きを止めているのは攻める準備が整っていないからだという誤解がありました。

 

織田徳川連合軍の勝利

勝頼は信長や家康の作戦にまんまとひっかかってしまい、これまで武田家を支えた家臣や数千の兵を失うことになりました。

 

一方、信長と家康は思惑通り長篠城を奪還することができた上、戦いにも勝利しました。

 

長篠の戦いのその後 

(武田勝頼自害 出典:Wikipedia)

 

 

長篠の戦い後、武田家の力は衰えていきました。

 

長篠の戦いから7年後の1582年、信長・家康・北条氏政らは、武田氏を滅ぼすため武田征伐を開始しました。

 

追い詰められた勝頼は、武田家の家臣小山田信茂(おやまだ のぶしげ)の岩殿山城(いわどのやまじょう)に逃げ込もうとしますが、小山田の裏切られてしまいます。

 

武田家の滅亡と死を覚悟した勝頼は、武田家ゆかりの地、天目山(てんもくざん)で自らの命を絶ちました。

 

長篠の戦いの新事実

①3,000丁の鉄砲はなかった!?

これまでの長篠の戦いの定説は、武田軍の騎馬隊を織田徳川連合軍が3,000丁の鉄砲で撃退したといわれてきましたが、最近この説が怪しくなってきました。

 

実はこの内容が書かれていたのは、長篠の戦いから約25年後、江戸時代初期に小瀬甫庵(おぜほあん)の著書『信長記(しんちょうき)』。

 

長篠の戦いと同時期に書かれた記録ではないことから信憑性に乏しいと考えられるようになりました。

 

現在は、“まあまあ信用できるのでは”と考えられている信長の家臣が書いた『信長公記(しんちょうこうき)』と、現地での発掘調査の結果を下に、新たな解釈がなされるようになっています。

 

例えば、戦場となった長篠の設楽原の発掘調査では、なぜか鉄砲の弾がほとんど出土しておらず、本当に3,000丁もの鉄砲が使われたのか疑問が持たれています。

 

②武田軍の騎馬隊もポニー!?

朱色で統一し、“武田の赤備え”と呼ばれた武田軍の騎馬隊に対しても、実際馬に乗って戦う騎兵は、武田軍全体の1割程度だったようで、騎馬隊と呼べるほどの規模も迫力もなかったと考えられています。

 

さらに、その当時の馬といえば、120cmほどの在来種の馬で、今でいうポニータイプ。

 

ポニーの騎兵隊を想像しても、あまり戦闘能力はなさそうですよね。

 

まとめ

・長篠の戦いとは、1575年5月21日、三河の長篠で起こった織田信長・徳川家康の連合軍VS武田勝頼の戦いのこと。

・長篠の戦いの原因は、武田勝頼が長篠城を手に入れようとしたこと。

・長篠の戦いの戦場は、長篠城と設楽原の2か所

・日本で初めて鉄砲が使われた戦いとして知られている。

・これまで定説となってきた3,000丁もの鉄砲が使われたかは疑問視されている。




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