“律令”といわれると有名な「大宝律令」が浮かびますね。

 

中学校でも701年大宝律令制定と710年平城京遷都は似た年号でなかなか悩ましかったはず・・・。

 

その「大宝律令」と、この「養老律令」はどんな関係なのでしょうか?

 

今回は、そんな『養老律令(ようろうりょう)』についてわかりやすく解説していきます。

 

養老律令とは?

 

 

養老律令とは、古代日本で757年に施行された基本法令です。

 

701年に制定された大宝律令718藤原不比等が中心となって修正、選定していき、後にその孫の藤原仲麻呂の主導で施行されることになったものです。

 

内容的には大きく大宝律令と変わらなかったと言われています。

 

国家の形成

 

少しさかのぼってしまいますが、古代日本の国家形成から確認していきましょう。

 

①古代国家のしくみ

古代日本に大和政権が誕生し、そこでは大王(おおきみ)が君臨していたわけですが、当初は有力な豪族との合議制のような形で政治を行っていました。

 

中でも蘇我氏は天皇家と並ぶ大きな勢力を持っていました。

 

②権力の集中を図る

飛鳥時代初期の推古天皇、そして摂政だった厩戸皇子(聖徳太子)は蘇我氏とうまく距離を取りつつも、当時の周辺の国々(新羅・百済・高句麗・隋)に負けない国を天皇主体で作っていこうと試みていきます。

 

その中で制定されたのが冠位十二階の制度であり、十七条の憲法でした。

 

元々の氏姓制度では天皇に人事権がなかったので新しい制度を作り、その権利を天皇に集中させ、さらに朝廷内でのルールづくりも進めていったのでした。

 

 

③天皇中心の国づくり

推古天皇亡き後、再び権力を大いにふるっていた蘇我氏を645年乙巳(いっし)の変で滅ぼし、大化の改新にて天皇中心の国づくりを進めていったのが中大兄皇子(天智天皇)でした。

 

そして恐れていたことに、友好国百済を救うべく立ち上がった663年の白村江の戦いで唐・新羅の連合軍に大敗を期した為、他国からの侵略に備えるべく今まで以上に中央集権国家の形成を加速させていく必要に迫られることになっていくのです。

 

ところが天智天皇亡き後、今度は跡継ぎを巡り内紛が起きてしまいました。

 

この壬申の乱に勝利した大海人皇子(天武天皇)は、他国に隙を見せないために急ぎ事態を終焉させます。

 

そして、反対勢力のない状況で、今度こそ本格的な天皇中心の国づくりを進めていくのでした。

 

律令国家の形成

(天武天皇 出典:Wikipedia

①飛鳥浄御原令

681年、天武天皇により律令制定を命じる(みことのり:天皇の命令)が発布されます。

 

律令制度は主に東アジアの法律の体系で(刑法)(それ以外の法)で形成されていました。

 

その制度を元にした律令国家を作るべく、積極的に遣唐使などを派遣し先進諸国の制度を学んでいったのです。

 

日本の律令は、唐の法律を元にして進めていきました。

 

翻訳作業も勿論、それを日本の事情にすり合わせて修正していくのは非常に困難で大変時間のかかる作業だったと思われます。

 

そしてようやく689年、持統天皇の時代に飛鳥浄御原令(あすかきよみのはらりょう)が制定されます。

 

ただし、これはあくまでも試作段階だったので、残念ながら律(刑法)の部分が入っていませんでした。

 

よってその後も制定作業は続けられていったのです。

 

②大宝律令の制定

701待望の【大宝律令】が完成します。

 

11巻と律6巻とを刑部親王(おさかべしんのう)、藤原不比等、粟田真人(あわたのまひと)下毛野古麻呂(しもつけののこまろ)らが中心となり選定し、日本で初めての律令として制定・施行されました。

 

国際情勢が不安定だった時代から、自国を守るべく天皇中心の中央集権国家を作り、独立国家としての形を整えることが急務となっていたのですが、その国家形成の1つの形がこの律令の制定だったのです。

 

養老律令の制定とその内容

 

①大宝律令の完成とその後

大宝律令の完成後も、時代に合わせてのメンテナンスは必要となっていきます。

 

法律を一度作って終わり…であれば極端に言うと今の国会の仕事も不要になってしまいますね。

 

718元正天皇は、藤原不比等らに大宝律令の補足と改修を命じました。

 

(藤原不比等 出典:Wikipedia

 

 

これがのちの養老律令制定に繋がっていきます。

 

②養老律令の内容

養老律令は中身が大宝律令とほぼ変わっておらず、律1012編、令1030編で成り立っています。

 

実は大宝律令はその資料がほぼ見つかっておらず、研究者の推測の部分が多いようですが、その推測するための資料が養老律令となっています。

 

養老律令も、それ自体は現存しませんが、令については平安前期に編纂された『令義解(りょうのぎげ)』『令集解(りょうのしゅうげ)』などの注釈書が残っており、律についても収集の集大成が『国史体系(こくしたいけい)』にまとめられています。

 

(刑法)では唐の刑罰である5つの刑罰をそのまま採用し、鞭で叩く(笞罪:ちざい)、杖で叩く(杖罪:じょうざい)、強制労働(徒罪:ずざい)、田舎へとばす(流罪:るざい)、殺す(死罪)などがありました。

 

また、令の中では官僚組織としての二官八省(神祇官・太政官・中務省・式部省・治部省・民部省・大蔵省・刑部省・宮内省・兵部省)が定められていました。これは今の省庁名にもつながっているのがありますね。

 

さらに、「衣服令(えぶくりょう)」では着衣の規定が細かく定めており、唐風の衣装も色まで定められていました。また大宝令から養老令になる際に修正がはいったと推測される「戸令(こりょう)」には戸主や相続の規定などが細かく決められていたようです。

 

③養老律令の必要性

この2つの律令にそこまで大きな相違点がなかったことから、あえて養老律令を制定する必要はなかったのではないかとも考えられますが、そこで問題になってくるのがこの施行時の政情です。

 

藤原不比等亡き後、一時的に編纂作業が止まっていたものを復活させ、757年に施行したわけですが、時の天皇は孝謙天皇であり、主導者は藤原仲麻呂でした。

 

 

(孝謙天皇 出典:Wikipedia)

 

 

当時、政府内で権力闘争が起こっていたので、この二人は共通の祖父である藤原不比等の偉業を活用して自らの政権の安定を図ろうとしたのかもしれませんね。

 

養老律令のその後

 

養老律令は、古代日本の政治体制を規定する根本的な法令として機能しますが、その後は大規模な法改正は行われず、(きゃく)という軽微な法改正や式(しき)という運用規定の見直しで対応していくようになります。

 

平安時代には形骸化し、後には法例よりも前例を重んじたり、鎌倉期には武士の法律が出来たりとなっていきますが、実は廃止令が出されてないので、明治維新のころまで続いていたのです。

 

1000年以上もこの法令が続いていたと思うと非常に感慨深いものを感じますね。

 

養老律令の語呂合わせ

 

【757年(この先長ごうなるね)養老律令】

 

と覚えましょう!

 

まとめ

✔ 養老律令は大宝律令を修正、再検したもの。

✔ 大宝律令、ついで養老律令の制定で古代からの。

✔ 中央集権国家形成の取り組みに1つの形を得ることができた。

✔ 養老律令の制定には実は当時の政治的意図もあった。

✔ 平安時代には養老律令自体は形骸化してしまった。

✔ 廃止令が出されなかったので、明治維新までこの法令は持続していた。

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