日本に最も近い国である韓国。

 

最近何かといざこざはありますが外交上大切な国です。

 

今回はそんな朝鮮と日本が江戸時代に行なっていた『朝鮮通信使』について簡単にわかりやすく解説していきます。

 

朝鮮通信使とは

(江戸城内で色々準備している朝鮮通信使 出典:Wikipedia

 

 

朝鮮通信使とは、江戸時代の将軍の代替わりの時に訪問してきた李氏朝鮮(国名)の外交使節のことです。

 

当時、朝鮮は日本と国交がある国でした。

 

朝鮮通信使の誕生のきっかけ・目的

(慶長の役 出典:Wikipedia

①室町時代の朝鮮通信使と文禄・慶長の役

江戸時代に始まったと思われがちな朝鮮通信使ですが、実は室町時代から始まっていました。

 

しかし、それはあくまでも朝鮮を荒らしていた海賊(倭寇)の取り締まりの要請をするためだけのものでした。

 

室町時代から日本と朝鮮の間で交流はありましたが、日本は1592年と1597年に渡って朝鮮に出兵しています。

 

このことを文禄の役と慶長の役と言いますが、これによって日本と朝鮮は国交断絶となってしまいました。

 

 

対馬は朝鮮と日本の間にある島で、朝鮮と日本の交流の橋渡しとして活躍していましたが、もし朝鮮と日本が国交断絶すると対馬はヤバイ状況に置かれてしまいます。

 

しかし運が良いのか、1600年に徳川家康が勝利して3年後に幕府を開くと朝鮮との外交関係回復の兆しが生まれていくようになります。

 

徳川家康は朝鮮に出兵していませんし、さらに言えば朝鮮に出兵した豊臣家から天下を奪っていますからね。

 

そして宗氏(そううじ=日本の氏族のこと)の懸命な努力によってなんとか1605年には和睦(和解のこと)が成立

 

その2年後には最初の朝鮮通信使がやってきて関係は回復しました。

 

②宗氏の国書偽造と己酉約条

(宗氏の家紋 出典:Wikipedia

 

 

しかし、宗氏は和睦のためになんととんでも無いことをやらかしてしまいます。

 

宗氏はなんとか和睦を進めるために動いてきましたが、そんな時トラブルが起きてしまいます。

 

なんと朝鮮からと文禄・慶長の役の戦争犯罪人の引き渡しと朝鮮のよりも早く国書を渡すことが要求されました。

 

宗氏は困ります。このままでは幕府は朝鮮と仲良くすることはできない。

 

そこで宗氏はとんでもないことをやらかしてしまいます。なんと宗氏は国書を偽造して朝鮮に渡したのです。

 

国書を偽造する事でなんとか朝鮮の要求をクリアすることはできますが国書偽造は幕府からしてみたら重罪中の重罪。バレた瞬間藩は取り潰しです。

 

しかし、この国書偽造はバレてしまいます。なんと幕府は国書偽造の罪よりも朝鮮との関係を良くしてくれた功績の方を優先してこの国書偽造の罪をなかったことにしてくれました。

 

③己酉約条

さらに1609年には己酉約条というものを結びます。

 

これは『朝鮮に行けるのは宗氏と将軍だけです。』という内容でこれによって宗氏は朝鮮外交の実務と貿易を独占してさらに宗氏は面目を保ちました。

 

朝鮮通信使について

(18世紀の釜山港にある倭館 出典:Wikipedia

①朝鮮通信使の行程ルート

朝鮮通信使は倭館(日本大使館)がある釜山からスタートして対馬、壱岐などを通りながら下関海峡を渡り瀬戸内海に入って大坂に到着します。

 

そこからは東海道を通って江戸へと向かいました。

 

この行程ルートは8ヶ月以上かかっていました。

 

②朝鮮通信使の人数

朝鮮通信使は正使、副使などの外交使節などをはじめ物資の輸送係、料理人、贈物係をすべて合わせると総勢700人という大所帯でした。

 

朝鮮通信使の波乱の歴史

(朝鮮通信使来朝図 出典:Wikipedia

①朝鮮通信使待遇問題

江戸時代の最初の頃は通信使は幕府の権威を示すために豪華な待遇で日本から迎えられていましたが、通信使にかかる費用は一回につきなんと100万両

 

これが幕府にとってはものすごい負担になっていました。いわゆる見栄を張っているというやつです。

 

しかし、綱吉時代に生類憐みの令などで幕府の財政が悪化すると通信使の待遇を少し抑えようという意見が出始めました。

 

これを推し進めたのが正徳の治を行なった新井白石です。

 

新井白石は朝鮮通信使の待遇を少しずつ簡略化して、さらに朝鮮の立場もものすごく偉そうな『朝鮮国大君』から普通の『朝鮮国王』に変えました。

 

②通信使の鶏泥棒

日本と朝鮮の関係は今でも少し悪い状態ですが、今でも一部の人は朝鮮の人のことを鶏泥棒という人がいます。

 

どうしてこうなったのかというと、実は1748年の通信使の様子が描かれた朝鮮聘礼使淀城着来図という絵の中に通信使の人が日本人が持っていた鶏を奪って喧嘩をしている様子が載っていたからです。

 

 

(朝鮮聘礼使淀城着来図 出典:Wikipedia

 

 

本当にそれがあったのかは定かではありませんが、当時この絵の舞台となっている淀の人たちは通信使が来るともてなしのためにいろんな負担をしなければならなかったので、それが原因で朝鮮のイメージが悪くなったという説があります。

 

③天明の待遇改定

いろんなトラブルがありましたが朝鮮通信使自体は続けられていました。

 

しかし、徳川家斉の時代になると朝鮮通信使に陰りが見え始めました。

 

この頃になると日本はロシアなどの欧米からの来航が増えて日本は蝦夷地を直轄化するなどその対応に明け暮れるようになります。

 

つまり朝鮮に構ってられなかったのです。

 

さらに通信使の中に当時警戒していたロシアのスパイがいるという噂が幕府の中で流れ、朝鮮通信使に対する警戒感を抱きはじめてしまいます。

 

そのため朝鮮通信使は送ることはできないとして延期となりました。

 

結局、朝鮮通信使が日本に行ける将軍就任から27年後のことでした。

 

朝鮮通信使の終わり

 

 

通信使の負担は朝鮮側にも重くのしかかり、19世紀に入ると朝鮮の財政は圧迫されてしまいます。

 

さらに朝鮮にも開国をさせるために欧米諸国からたくさんの船が来航してきました。

 

そして朝鮮の親分と言える国である清は1843年にアヘン戦争に負けてしまいます。

 

 

その結果、朝鮮はその対応に追われてしまい、通信使どころではなくなってしまいます。

 

一方の日本も1853年にペリーが来航してきてその対応に追われていくようになり通信使なんてやってられない状況になってしまいました。

 

 

日本は幕府に着々とは向かいつつある薩摩藩や長州藩などのような西日本の大名たちに朝鮮通信使の費用を賄ってもらい財政を悪くしようとしましたが、結局この計画は破綻してしまい実現には至りませんでした。

 

このため通信使は対馬でやることになり、日本本土には来なくなりました。

 

もしもこの計画が成功したらもしかしたら倒幕のための軍備が少し遅れたかもしれません。

 

まとめ

 朝鮮通信使は将軍の代替わりに送られた朝鮮の外交使節のこと。

 朝鮮通信使ができたきっかけには宗氏の努力があった。

 朝鮮通信使の費用は年を経るごとに簡略化していき最終的には対馬でやるようになり日本本土に来なくなった。




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