東禅寺事件は開国直後の江戸で外国人が襲撃された事件です。

 

イギリス公使オールコックが襲撃された第一次東禅寺事件の方が有名ですが、実はそのちょうど一年後にも同じ東禅寺で襲撃事件が発生しました。

 

今回は二つの『東禅寺事件』について、その事件の内容やきっかけなどをわかりやすく解説していきます。

 

東禅寺事件とは

(1860年代の東禅寺 出典:Wikipedia

 

 

東禅寺事件とは、江戸高輪東禅寺におかれていたイギリス仮公使館が襲撃された事件です。

 

1861年水戸浪士によって、1862年松本藩士によって2回発生しました。

 

東禅寺事件が発生した背景・目的

①止まらない金の流出!上昇する物価

開国後、国内は物価上昇が進み、特に下級武士や庶民の生活は大変苦しいものとなりました。

 

その原因が、日本と外国の金銀に対する価値の違いでした。

 

金銀の交換比率が外国では115だったのに対し、日本では15と大きな違いがありました。外国人が銀貨を日本に持ち込むと、他国よりも安く金貨と交換することができたのです。

 

そこで外国から多くの銀が持ち込まれ、10万両以上の金貨が海外に流出することとなりました。

 

幕府はこの事態をなんとか防ごうと、金の含有量を引き下げた万延小判を鋳造します。

 

ところがこれによって貨幣の価値が下がるすなわちインフレが起きてしまい、かえって物価が上がってしまいました。

 

物価上昇の原因となる金の流出を抑えようとしたのが、余計に物価上昇を引き起こしてしまったのです。

 

②攘夷運動の高まり

こういった経済状況を受けて、貿易に対する反感とその原因を作った幕府へ対する不満はますます高まりました。

 

そしてその矛先は外国へと向けられ、激しい攘夷運動へとつながっていきます。

 

1860年、日米修好通商条約を締結したことで知られるアメリカ総領事ハリスの通訳であったオランダ人ヒュースケンが、江戸の三田で薩摩藩浪士によって斬り殺されるという事件が起きます。

 

この事件が攘夷派による外国人殺傷事件のはじめとなり、東禅寺事件やその後の生麦事件と続くのです。

 

 

東禅寺事件の内容

(第一次東禅寺事件 出典:Wikipedia)

①第一次東禅寺事件

1861年5月、イギリス公使ラザフォード・オールコックは長崎から陸路で東海道を旅行しながら江戸へ入りました。

 

(オールコック 出典:Wikipedia

 

 

幕府は警備上の問題があったため、海路での移動を勧めていました。

 

しかし、オールコックは国内旅行権が条約で定められていることを主張し、考えを変えませんでした。

 

そうして長﨑を出発して瀬戸内海から陸路移動する34日の旅行を強行して、527日にイギリス公使館が置かれていた江戸高輪の東禅寺に到着しました。

 

こういった状況を知った尊王攘夷派の志士たちは「夷狄である外人男性に神州日本が穢された」と憤慨しました。

 

5月28日の夜、水戸藩を脱藩した攘夷派浪士たちは東禅寺内に侵入し、公使オールコックらを殺害しようと襲撃しました。

 

浪士たちは有賀半弥をはじめ14名いました。公使館側には外国奉行の配下として警備に就いてた旗本や郡山藩士、西尾藩士がいましたが、浪士たちと戦闘し、警備側に2名、浪士側に3名の死者と負傷者を出しました。

 

書記官として来日していたローレンス・オリファントは乗馬用の鞭をつかって浪士たちに反撃したと言われます。

 

オリファントと長﨑駐在領事ジョージ・モリソンは負傷し、その後帰国。公使オールコックは幸いケガもありませんでした。

 

一方攘夷派浪士たちは公使たちの殺害に失敗し逃走します。そのうち有賀半弥、小堀寅吉、古川主馬之介の3名が討ち取られ、榊銊三郎が現場で捕縛されたのち、12月に斬首されました。

 

その他の逃げた浪士も品川の旅館虎屋で包囲され、その場で切腹しました。

 

浪士たちはいずれも襲撃の趣意書を携帯しており、それにはこの襲撃は「尊攘の大義のため」に実行したと記されていました。

 

かろうじて逃走した浪士もその後捕らえられたり、坂下門外の変や天誅組の変といった別の攘夷派のクーデターに参加した後に捕らえられ斬首されました。

 

この時外国方として東禅寺にいて事件を目撃した福地桜痴は、事件の概要を記録しています。

 

オールコックはこの事件を体験して、攘夷運動の熾烈さを認識することとなりました。彼は後に著書で「警備兵は浪士と戦わなかった」としていましたが、そんなことはありませんでした。

 

後日、浪士らを撃退した警備の武士48名には褒賞が下されています。

 

②第二次東禅寺事件の内容

第一次東禅寺事件をうけて、公使オールコックは幕府による警護に期待ができないとして、イギリス公使館を横浜に移しました。

 

しかし、オールコックが帰国中に代理公使となったジョン・ニールは、再び公使館を高輪東禅寺に戻してしまいます。

 

そして東禅寺の警護は大垣藩、岸和田藩、松本藩が担当することとなりました。

 

松本藩士の伊藤軍兵衛は、この東禅寺警備に自分の藩が多くの人手だけでなく多くの出費を強いられていることを憂いていました。

 

そして再び浪士による襲撃を受けることがあれば、外国人のために日本人同士が殺し合わなければいけない、ならば公使を自ら殺害して、松本藩が東禅寺警備を解任されるようにしようと考えます。

 

伊藤は1862529日、つまり第一次東禅寺事件からちょうど一年たった日の夜中に、公使ニールの寝室に侵入を試みます。

 

しかし、警備のイギリス兵2名に発見され戦闘となってしまいます。伊藤はなんとかイギリス兵を倒したものの、自身も負傷してしまったことから番小屋に逃れて、そのまま自刃してしまいました。

 

東禅寺事件の影響・結果

①第一次東禅寺事件の結果

オールコックは江戸幕府に対し厳重に抗議をします。

 

結果幕府は、日本側警備兵を増強するのはもちろん、イギリス水兵を上陸させて公使館に駐屯させることを承認しました。

 

さらに賠償金1万ドルの支払いを了承して事件は解決となりました。

 

そしてこの事件の後、イギリス艦隊の軍艦は横浜に常駐することとなりました。

 

②第二次東禅寺事件の結果

幕府は警備責任者を処罰し、さらに松本藩主松平光則に差控えを命じます。差控えとは、出仕を離れ自宅謹慎を命じるという制裁です。

 

そしてイギリスとの間で賠償金の支払い交渉を行ったのですが、なかなかまとまりませんでした。

 

そうしているうちに同年9月、神奈川の生麦村で、江戸から薩摩へ帰る途中の島津久光の行列を横切ったイギリス人を薩摩藩士が斬った生麦事件が発生します。

 

結果、幕府が生麦事件の賠償金とともに1万ポンド(約4万ドル)を支払う形で解決となりました。

 

 

東禅寺事件の語呂合わせ

 

多く取り上げられるのは第一次東禅寺事件です。

 

年号の覚え方は・・・

 

「東(1=とう)の禅寺で野郎(86=やろう)がイ(1=い)ギリス襲う、東禅寺事件」

 

まとめ

・東禅寺事件とは江戸高輪東禅寺に置かれたイギリス仮公使館が襲撃された事件のこと。

・第一次東禅寺事件は1861年イギリス公使オールコックらが水戸藩を脱藩した攘夷派浪士たちによって襲撃された事件。

・第二次東禅寺事件は1861年イギリス代理公使ジョン・ニールらが、警備に就いていた松本藩士伊藤軍兵衛によって襲撃された事件。

・いずれの事件もイギリスに対し多額の賠償金を払う形で解決した。

・第一次東禅寺事件の年号の語呂は「東(1=とう)の禅寺で野郎(86=やろう)がイ(1=い)ギリス襲う、東禅寺事件」

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