【承和の変・応天門の変・安和の変の違い】簡単にわかりやすく解説!!

 

「○○の変」と名前のついた事件は、様々なものがあり、平安時代だけでも多くあります。

 

歴史を学ぶ上では、それぞれの事件について正確に理解し、その事件が歴史上、どのような意義を持つのか、前後の歴史とどのように結びつくのか、考察することでより深い理解が生まれます。

 

その上で、承和の変・応天門の変・安和の変は、いずれも平安時代に起きた事件ですが、その名称から、それぞれの内容を思い浮かべることができますでしょうか?

 

いずれも藤原氏による他氏排斥事件ですが、それぞれの事件の性質や内容は異なっているので、混同される方もいると思います。

 

そこで今回は、承和の変・応天門の変・安和の変の違いについて、簡単にわかりやすく解説したいと思います。

 

承和の変・応天門の変・安和の変の違い 

 

冒頭申し上げたとおり、いずれも藤原氏による有力氏族の排斥事件です。

 

 

三者の違いは・・・・

 

✔ 承和の変

842年(承和9年)藤原良房が自身の妹が生んだ皇子を皇太子とするため、対抗勢力である伴健岑・橘逸勢を、陰謀によって排除し、立太子を実現させ、権力の確立を図った事件

 

✔ 応天門の変

866年(貞観8年)藤原良房が大納言・伴善男を応天門放火の犯人として追いやり、有力氏族の伴氏の追い落としを図った事件

 

✔ 安和の変

969年(安和2年)藤原師伊ら藤原一族が、左大臣・源高明の失脚をさせ、更なる昇進を実現した事件

 

 

以上のように、事件の性質や内容の違いがあります。

 

それぞれの事件の詳しい内容については、以下でわかりやすく解説していきます。

 

承和の変についてわかりやすく解説!

 (藤原良房 出典:Wikipedia)

 

833年(天長10年)、淳和天皇の譲位により、正良親王が仁明天皇として即位しましたが、この仁明天皇の皇太子には、嵯峨上皇の強い意向により、淳和上皇の子である恒貞親王が立てられました。

 

これに先立ち、藤原北家の藤原冬嗣は810年(弘仁元年)、天皇の秘書的役割を持つ蔵人所の蔵人頭に就任しており、時の天皇である嵯峨天皇との結びつきを深め、冬嗣の子である藤原良房も、嵯峨上皇とその皇太后の信任を獲得し、急速に台頭していきました。

 

良房の妹は仁明天皇の后となり、道康親王(後の文徳天皇)が生まれたため、良房は道康親王の皇位継承を望むようになっていました。

 

840年(承和7年)、淳和上皇が崩御し、842年(承和9年)には、嵯峨上皇も重い病に伏したため、皇太子である恒貞親王に仕える伴健岑、橘逸勢は危機感を募らせました。

 

そして彼らは、恒貞親王を東国へ移すことを画策し、その計画を阿保親王(平城天皇の皇子)に相談しましたが、阿保親王は、嵯峨上皇の皇太后にこの策謀を伝えてしまいました。

 

皇太后はこれに驚き、良房に相談したところ、良房はこれを仁明天皇に伝えました。

 

その後、842年(承和9年)7月に嵯峨上皇が崩御し、仁明天皇は、伴健岑と橘逸勢とその一味を逮捕しました。

 

逮捕の理由は、2人が恒貞親王を奉じて東国に赴き、反乱を企てているというものでした!

 

仁明天皇は詔を発し、伴健岑、橘逸勢らを謀反人と断じ、恒貞親王は事件とは無関係としながらも責任を取らせるため、皇太子を廃しました。

 

また、伴健岑は隠岐(その後出雲国へ左遷)、橘逸勢は伊豆に流罪(移動途中、遠江国で死亡)となるなど、関係者が処分されました。

 

後に、良房が望んだように、道康親王が皇太子となっています。

 

以上が世にいう承和の変です。

 

2人が反乱を企てているというのは、冤罪の可能性が高く、良房が、権力の確立を図るために行った陰謀と推定されています。承和の変は、藤原氏による最初の他氏排斥事件と言われています。

 

 

応天門の変についてわかりやすく解説!

(応天門炎上の場面 出典:Wikipedia)

 

 

866年(貞観8年)応天門が放火され、炎上する事件が起きました。

 

この事件について大納言・伴善男は、右大臣・藤原良相に対し、源信が犯人であると告発しました。

 

藤原良相は源信の逮捕を命じて兵を出し、邸宅を包囲したところ、これを察知した太政大臣・藤原良房は、清和天皇に奏上し、源信を弁護しました。

 

結果、源信は無実とされ、邸を包囲していた兵は引き上げていきました。

 

その後、応天門放火の犯人として伴善男が告発され、政治的事件として表面化しました。

 

善男は尋問に対し強く否認しましたが、善男の従者は善男が源信を失脚させるために善男の息子に命じて放火させたと自白しました。

 

これを受け、朝廷は伴善男らを応天門の放火の犯人であると断罪し、流罪と決定しました。

 

善男は伊豆国、その息子・中庸は隠岐国への流罪となるなど、放火の関係者とその親族が罰せられました。

 

以上が世に言う応天門の変です。

 

この事件の処理に当たった藤原良房は伴氏などの有力官人を排斥し、事件後には清和天皇の摂政となり、藤原氏の勢力を拡大することに成功しました。

 

そのため、応天門の変は藤原氏による伴氏追い落としのための陰謀とする見方が強いです。

 

 

安和の変についてわかりやすく解説!

 

967年(康保4年)、村上天皇が崩御し、冷泉天皇が即位、関白太政大臣に藤原実頼、左大臣に源高明、右大臣には藤原師尹が就任しました。

 

冷泉天皇には皇子がなく、その同母弟であり、年長の為平親王が皇太子の有力候補でしたが、藤原氏は、為平親王の同母弟である、守平親王の立太子を成功させました。

 

これは、為平親王の后の父親は源高明であり、藤原氏が高明の権勢拡大を恐れたためであるとされています。

 

969年(安和2年)源満仲源連の謀反を密告したのを契機に、右大臣・藤原師伊らはただちに内裏警固・固関を行い、謀叛の関係者を逮捕しました。

 

その後、高明は、太宰権師に左遷されました。また、密告の功績により、源満仲は昇進し、師尹が左大臣となり、右大臣には大納言・藤原在衡が昇任しました。

 

以上が世にいう安和の変です。

 

醍醐天皇を父に持つ源高明を失脚させ、昇進を果たした藤原氏は、中央政界において、さらに権勢を強めていき、藤原道長の時代に最盛期を迎えます。

 

 

まとめ

 「承和の変」「応天門の変」「安和の変」は事件の性質や内容が違う。

 承和の変は、藤原良房が自身の妹が生んだ皇子を皇太子とするため、対抗勢力である伴健岑・橘逸勢を、陰謀によって排除した事件のこと。

 応天門の変は、藤原良房が大納言・伴善男を応天門放火の犯人として追いやった事件のこと。

 安和の変は、藤原師伊ら藤原一族が、左大臣・源高明の失脚をさせた事件のこと。