豊臣秀吉の天下統一後、息子・秀頼の誕生をきっかけに豊臣政権に導入された制度が五大老・五奉行。

 

秀吉のライバル大名5人と秀吉の側近5人が五大老、五奉行にそれぞれ任命されました。

 

今回は独裁政権を突き進んだ秀吉が、晩年に設置した『五大老・五奉行』の覚え方・それぞれの意味について解説していきます。

 

あらためて五大老・五奉行とは?

 

 

五大老・五奉行とは、16世紀末期(安土桃山時代)豊臣秀吉の死の間際、豊臣政権を継続するために導入された制度のことです。

 

司法、土木、行政、宗教、財政の実務を担っていた5人の秀吉の家臣を五奉行、その五奉行の上に置かれ、顧問を務めた5人の大名を五大老と呼びます。

 

五大老・五奉行の覚え方【語呂合わせ】

 

①五大老の語呂合わせ

 

ウキウキ上杉もう

 

ウキ→宇喜多秀家

上杉→上杉景勝

もう→毛利輝元

→徳川家康

→前田利家

 

覚える時のポイントは、架空のお笑い芸人“ウキウキ上杉”さんが、あなたの家の前に来てくれた様子をイメージすると覚えやすいでしょう。

 

五奉行の語呂合わせ

 

浅野医師になりました

 

→長束(なつか)正家

→前田玄以

浅野→浅野長政

医師→石田三成

ました→増田(ました)長盛

 

覚える時のポイントは、あなたが誰か(恩師など)に友人の浅野君がお医者さんになったことを報告する様子をイメージすると良いでしょう。

 

また、文学的な感じで覚えたい場合は…、

 

『夏の前、浅野は石になりました。』

 

もおすすめ。

 

受け取り方によってイメージする世界観が変わりますが、なんだかもの悲しくミステリアスな雰囲気が漂う語呂合わせです。

 

医師を石に変えるので、石田三成とも直接結びつけやすくなります。

 

 

それでは次にそれぞれの意味・違いを解説していきます。

 

五大老・五奉行のメンバー

①五大老について

(五大老の花押”著名のこと” 出典:Wikipedia

 

 

秀吉が指名した5人の大名は、徳川家康前田利家毛利輝元宇喜多秀家小早川隆景(たかかげ)。

 

しかし、小早川隆景は1597年に死去したため、上杉景勝が新たに加わりました。

 

五大老とは徳川家康前田利家毛利輝元宇喜多秀家と、小早川隆景ではなく上杉景勝5人を指します。

 

②五奉行について

(五奉行の花押”著名のこと” 出典:Wikipedia

 

 

五奉行を担ったのは、司法担当の浅野長政、行政担当の石田三成、財政担当の長束正家(なつかまさいえ)、土木担当の増田長盛(ましたながもり)、朝廷・宗教担当の前田玄以(まえだげんい)

 

※浅野長政は、1570年姉川の戦いで織田信長と戦った浅井長政(あざいながまさ)と一文字違いで紛らわしいので、間違えないようにしましょう。

 

五大老・五奉行の制定の目的や背景

(豊臣秀頼 出典:Wikipedia)

息子秀頼の誕生

秀吉が五大老・五奉行を設置したのは、秀吉の晩年、それも、秀吉が自分の死を意識するようになってからのことです。

理由は、秀吉が57歳の時に授かった我が子、豊臣秀頼でした。

 

これまで何でも自分で決めて実行してきた秀吉の独裁政権は、次の代へと安心して継続できる支配体制は整っていませんでした。

秀頼が豊臣政権を担える年齢まで秀吉が生き続けることは不可能で、秀吉が死んだら、『待ってました!』とばかり、ライバル大名たちが天下を狙ってくるに違いありませんでした。

 

そこで、秀吉が考えたのが五大老・五奉行でした。

 

五大老・五奉行の目的

五大老・五奉行の目的は、秀吉の死後も豊臣政権を継続され、成人した秀頼に政権を引き継ぐため。

 

1598年、死を目前にした秀吉は、自分の死後の豊臣政権は、五大老と五奉行が会議をし、その合意によって政策を決定する合議制にすることを言い残して亡くなりました。

 

秀吉は、あえてライバル大名たちを豊臣政権に取り込み、自分の信頼する側近たちの五奉行とともに、秀頼をサポートさせようとしたのです。

 

五大老・五奉行のその後

徳川家康と石田三成の対立

 秀吉の死後、五大老の筆頭だった徳川家康は虎視眈々と次の天下人を目指して好き放題に振る舞うようになりました。

 

そのため秀吉の側近中の側近、石田三成は家康を警戒し、対立を深めていきました。

 

そして1600関ケ原の戦いへと突入していったのです。

 

 

②五大老と関ケ原の戦い

天下分け目の関ケ原の戦いで、五大老・五奉行メンバーは、石田三成の率いる西軍、徳川家康を大将とする東軍のどちらについたのでしょうか?

 

宇喜多秀家(1573年~1655年)は、石田三成を中心とする西軍の主力として参加。関ケ原後は、八丈島へ流罪となりました。

 

毛利輝元(1553年~1625年)は、西軍の総大将となりましたが、自らは出陣しませんでした。

関ケ原後は、周防・長門(山口)のみ残して、毛利の領地すべてが江戸幕府に没収されました。

 

上杉景勝(1556年~1623年)は、西軍でしたが、関ヶ原後は家康に降伏。

景勝は家康に謝罪し、なんとか上杉家を存続させましたが、会津120万石の領地を米沢30万石まで減らされてしまいました。

 

小早川隆景(1533年~1597年)と前田利家(1538年~1599年)は、関ケ原の戦い前に病死しました。

 

五奉行と関ケ原の戦い

五奉行は秀吉の側近のため、全員、石田三成の西軍についたのだろうと思いきや、実は違います。

 

石田三成とともに西軍側にいたとはっきり言えるのは長束正家のみでした。

 

浅野長政は、秀吉の死後、1599年に隠居していましたが、関ヶ原の戦いでは家康を支持しました。

息子の浅野幸長は、東軍に参戦。岐阜城を攻め落とすなど活躍し、家康から紀伊国和歌山37万石を与えられました。

 

そして、注目は増田長盛と前田玄以。

どちらも西軍側の立ち位置でありながら、東軍の徳川家康にも内通する行動をとっていたようです。

 

しかし、関ケ原後の待遇は全く違うものでした。

 

関ヶ原後、長盛は出家して家康に謝罪しましたが、領地を没収され高野山に預けられることになりました。

一方、玄以は、領地である丹波・亀山城は没収されず、江戸幕府では亀山藩の初代藩主となりました。

その理由は、玄以が豊臣政権の五奉行として朝廷と政権の間を取り持つ仕事を行っていたため、家康はその朝廷とのつながりを江戸幕府でも利用できると考えたようです。

 

まとめ

・五大老の語呂合わせは、『ウキウキ(宇喜多秀家)上杉(上杉景勝)、もう(毛利輝元)、家(徳川家康)の前(前田利家)』

・五奉行の語呂合わせは、『夏(長束正家)の前(前田玄以)、浅野(浅野長政)は医師(石田三成)になりました(増田長盛)』

・五大老五奉行は、秀吉の死後も豊臣政権が継続され、息子秀頼に政権を引き継ぐための制度

・五大老は、徳川家康、前田利家、毛利輝元、宇喜多秀家、上杉景勝の5人の大名。

・五奉行は、浅野長政、石田三成、長束正家、増田長盛、前田玄以の5人の秀吉の側近。




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