個性的なキャラの戦国武将、織田信長と豊臣秀吉に代表される安土桃山時代。
たった30年間の短い時代ですが、派手で豪華、そしてインターナショナルな桃山文化が発展しました。
今回は、そんな『安土桃山時代』についてわかりやすく解説していきます。
安土桃山時代とは
(聚樂第屏風圖 出典:Wikipedia)
安土桃山時代とは、室町幕府が滅亡した1573年から、徳川家康が江戸に幕府を開く1603年までの30年間の時代のことです。
15代将軍足利義昭(あしかがよしあき)を京都から追い出し、室町幕府を滅亡させたのは織田信長でした。
安土桃山時代初期は戦国時代末期と重なり、織田信長と豊臣秀吉がこの時代の主人公です。
信長の安土城と、秀吉晩年を過ごした伏見城のある桃山(京都)にちなんで、安土桃山時代といいます。
安土桃山時代の文化
①桃山文化は繁栄!
安土桃山時代に栄えた文化は桃山文化と呼ばれます。一言でいうと派手!
戦国時代を勝ち抜いた大名や、スペイン、ポルトガルとの南蛮貿易で莫大な富を得た大商人たちがつくった豪華で華やかな文化です。
もちろん、スペイン人やポルトガル人がもたらしたインターナショナルな南蛮文化の影響も受けました。
桃山文化を象徴する建築物といえば、高くそびえる天守閣をもつ安土城、大阪城、姫路城。
城内のふすまや屏風には、時代を代表する絵師の狩野永徳(かのう えいとく)らが、華やかで雄大な構図の絵を描きました。
ちなみに、ふすまなどに描かれた絵は障壁画(しょうへきが)と呼ばれています。
音楽の分野では、琉球王国から伝わった三線(さんしん)を改良して、三味線(しゃみせん)がつくられました。
三味線の伴奏にあわせて人形劇を上演する人形浄瑠璃や、出雲大社の巫女(みこ)だった出雲阿国(いずものおくに)が始めた歌舞伎踊りなど、新しい芸能も登場しました。
ちなみに、歌舞伎踊りは江戸時代に花開き、現在も日本の伝統文化として受け継がれている歌舞伎のルーツです。
②安土桃山時代の服装
(戦国時代から安土桃山時代にかけての女性 出典:Wikipedia)
武家の女性たちの間で流行った安土桃山ファッションは、桃山小袖(こそで)。
小袖とは袖口が小さくなった着物のことで、現代の着物の形はこの小袖が原型となっています。
平安時代には貴族の下着でしたが、鎌倉時代からアウターとして着られるようになりました。
他の時代の小袖と比べ桃山小袖は、南蛮文化の影響を受け鮮やかな赤色を多く使い、美しい模様の華やかなデザインが特徴です。
また、ポルトガル・スペイン人が布教したキリスト教の影響を受けた独特の男性ファッションが見られたのもこの時代です。
また、キリスト教信者の武士は着物の襟元ににヨーロッパ風の白い布で作ったひらひらのフリル=ラッフルをつけ、和洋折衷の独特な着こなしをしていました。
③安土桃山時代の食事
(懐石料理 画像引用元)
安土桃山時代には、南蛮貿易によりヨーロッパや東南アジアからの新しい食材が入ってきました。
スイカやカボチャ、タマネギ、ジャガイモ、トマト、ブドウ、バナナ、コショウなど多彩な食材が日本にもたらされました。
また、新たな食材とともに、油で揚げるという調理法も伝わり、てんぷらやがんもどきなど、料理の幅も広がりました。
日本ならではの食文化、懐石料理もこの時代に登場します。
当時、お茶を楽しむ茶の湯が大名や大商人などのセレブたちの間で大流行。
懐石料理は、茶の湯の前の空腹を少し満たすための食事として出されました。
安土桃山時代の出来事
①1575年 長篠の戦い
織田信長が、徳川家康と同盟を結び、三河の長篠(愛知)で、甲斐(山梨)の武田勝頼(かつより)に勝利した戦いです。
②1570年~1580年 石山合戦
織田信長と顕如(けんにょ)が率いる浄土真宗本願寺派との戦い。
信長が浄土真宗本願寺派の本山、大阪にあった石山本願寺を手に入れようとしたことが戦いの発端となりました。
③1582年6月21日 本能寺の変
安芸(広島)の毛利氏との戦いに参戦するため、京都の本能寺に滞在していた織田信長を家臣であった明智光秀が襲撃し、自殺に追い込んだ事件です。
④1582年6月13日 山崎の戦い
本能寺の変の後、信長の家臣羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)が山崎(京都)で明智光秀と対戦し、勝利した戦い。
秀吉が明智軍を迎え撃ったのが天王山という山だったことから、別名天王山の戦いとも呼ばれています。
現在、勝敗や運命の大切な分かれ目を天王山というのもこの山崎の戦いが由来となっています。
⑤1582年 天正遣欧使節ヨーロッパへ
天正遣欧使節(てんしょうけんおうしせつ)とは、キリスト教を支持する九州のキリシタン大名大友宗麟(おおともそうりん)と有馬晴信らによって、イタリアのローマ教皇のもとに派遣された13歳~14歳の4人の少年のこと。
その少年たちの名は、伊東マンショ、千々石ミゲル、中浦ジュリアン、原マルチノ。1590年に帰国しました。
⑥1583年 賤ヶ岳(しずがたけ)の戦い
近江の賤ヶ岳(滋賀)付近で繰り広げられた羽柴秀吉とライバル柴田勝家の戦い。
秀吉はこの戦いに勝利したことで、天下取りに弾みをつけました。
⑦1590年 豊臣秀吉の全国統一
秀吉は、小田原(神奈川)の北条氏を滅ぼし、東北地方の伊達氏らを従えて全国を統一。
この秀吉の全国統一により戦国の世は終わりました。
⑧1592年と1597年 朝鮮侵略
秀吉は1592年と1597年の2回、朝鮮(李氏朝鮮)へ出兵。
文禄の役と呼ばれる1592年の出兵は、朝鮮の李舜臣(イ・スンシン)の水軍が秀吉の水軍を撃破。
また、1597年の慶長の役では、途中で秀吉が病死したため、豊臣軍は朝鮮から兵を引き上げました。
この朝鮮侵略によって豊臣政権は膨大な戦費と兵を無駄に使ってしまい、力が衰えていきました。
安土桃山時代を代表する人物
①織田信長(1534年~1582年)
言わずと知れた超有名戦国武将。
常識にとらわれず、関所の廃止、楽市・楽座といった新しい試みを次々と打ち出しました。
家臣のチョイスも独特で、農民出身の秀吉やイエズス会宣教師に奴隷として連れてこられた黒人の弥助も家臣として取り立てました。
ある意味ボーダレスな人ですよね。
②豊臣秀吉(1536年~1598年)
信長同様、超有名戦国武将。
その見た目から信長に“サル”と呼ばれていたのは有名な話。
農民から天下統一を成し遂げ、戦国時代の下剋上(身分の低い者が上位の者を知恵と武力で倒す)の代名詞のような人です。
政策としては、農民や寺社から刀や鉄砲などの武器を取り上げた刀狩や、ものさしやますを統一し全国の土地を調べその土地の米の生産力を石高(こくだか)で表した太閤検地が有名です。
③千利休(1522年~1591年)
茶道のルーツ、茶の湯を芸術のレベルまで高めた、茶の湯界の巨匠。
もともとの堺の商人でしたが、茶の湯を愛した秀吉に仕え、シンプルな中に美しさを見出す“わび茶”を極めました。
しかし、黄金の茶室を作ってしまう成金趣味の秀吉と利休の追及するわび茶は考え方が真逆。
理由はわかっていませんが、秀吉の怒りをかい、利休は死を命じられました。
④狩野永徳(1543年~1590年)
狩野永徳は、安土桃山時代を代表する絵師。
永徳の家系は室町時代から明治維新までの約400年にわたって日本絵画を支えた最大の画派、狩野派。
その狩野派にあって、最強の天才絵師と称された人物です。
『唐獅子図屏風(からじしずびょうぶ)』、『洛中洛外図屏風(らくちゅうらくがいずびょうぶ)』などが代表作。
まとめ
✔ 安土桃山時代とは、織田信長と豊臣秀吉が活躍した1573年から1603年までの30年間続いた時代のこと。
✔ 安土桃山時代に栄えた絢爛豪華な文化が桃山文化。
✔ 千利休による茶の湯が大名や商人の間で大流行しました。
✔ 出雲阿国の歌舞伎踊り、人形浄瑠璃などの芸能も始まりました。