【南蛮文化とは】わかりやすく解説!!食べ物や服装などの特徴・伝わったものなど

 

南蛮文化という言葉を聞くとどのようなものを浮かべるでしょうか?

 

カステラ、鉄砲、世界地図、ビラのついた衣装など…色々あると思います。

 

今回は、この『南蛮文化』についてわかりやすく解説していきます。

 

南蛮文化とは

(南蛮屏風に描かれた南蛮人 出典:Wikipedia

 

 

南蛮文化とは、戦国時代(室町時代末期)から江戸時代初めの16~17世紀頃にかけて栄えたヨーロッパ文化の影響を受けた文化のことをいいます。

 

キリシタン文化とも呼ばれますが、この時期に盛んに行われていた南蛮貿易と宣教師によるキリスト教伝来の色が強く出た文化でした。

 

“南蛮”とは中国語で南方の異民族を指す蔑称です。

 

当時ポルトガル人とスペイン人は、東南アジアを経由して日本に渡来してきたので、彼らを“南蛮人”と呼んだことから、彼らとの貿易を「南蛮貿易」その色を強く受けた文化を「南蛮文化」と呼んだわけです。

 

伝来のきっかけ

 

 

この時期ヨーロッパでは大航海時代真っ盛りでした。

 

 

ポルトガルとスペインを筆頭にアジア、アフリカ大陸への大規模な航海が進んでいたのです。

 

あの有名なコロンブスがアメリカ大陸を発見したのもこの頃です。

 

諸国が世界を駆け巡る中、日本人も世界の文化に触れることになるのでした。

 

後に天下統一を果たした江戸幕府の鎖国政策により、この文化は江戸初期で終わってしまうのですが、国際社会の影響を受けた歴史的な期間ともいえるでしょう。

 

南蛮文化でもたらされたもの

(南蛮屏風に描かれた南蛮船と南蛮人 出典:Wikipedia

①鉄砲の伝来と南蛮貿易

この文化で欠かせないものといえば、何といっても1543年、種子島に流れついたポルトガル人によってもたらされた鉄砲(火縄銃)です。

 

この鉄砲が戦国大名たちに注目され各地に広まりますが、そのことにより当時の戦闘方法にも変化が起こっていきました。

 

(火縄銃 出典:Wikipedia

 

 

織田信長1575年、長篠の戦いで他の大名に先駆けて鉄砲メインの戦術を使い、その後天下統一に向けて邁進していくようになったことはご存知の通りですね。

 

 

そして、当時マカオを本拠地としていたポルトガル商人たちも、貿易相手国として日本に注目し、長崎県(平戸/長崎)で貿易が始まります。

 

これが南蛮貿易ですが、この貿易によりさまざまなものが輸入されていくようになるのです。

 

ちなみにこの貿易で日本は主に銀を輸出していました。

 

世界遺産に登録されている岩見銀山(島根県)が主な産地でしたが、当時世界の銀流通量の約3分の1を日本が産出していました。

 

この頃は資源のある国だったのですね。

 

②伝わった物品(食べ物・衣服・嗜好品など)

 

 

この貿易により、カステラ・パン・ブドウ酒・金平糖やボーロなどの食品、メリヤス製品やラシャ、カッパなどの衣類が持ち込まれ、広く普及して日常的に用いられるようになっていきます。

 

庶民の中でも金のくさりやボタン、ヒダのある襟がついたヨーロッパ風の衣服や装飾品を身に着けることが流行しました。

 

織田信長が西洋風の帽子やマントを愛用していたのは有名な話ですね。

 

カルタなどの雑貨、オルガンやヴィオラ等西洋楽器のように芸術にまつわるものなども伝えられました。

 

 

(うんすんカルタ 出典:Wikipedia

 

 

タバコも伝わり、この頃から喫煙の習慣が出来ていくのです。

 

③キリスト教の広まり

(フランシスコ・ザビエル 出典:Wikipedia

 

 

もう一つの欠かせないもの、それがキリスト教の伝来です。

 

1549年イエズス会の宣教師ザビエルがキリスト教を伝えるために日本にきました。

 

ザビエルは布教の為に、山口・京都・大分などを訪れましたが、山口の大内義隆には時計やメガネ、火縄銃、ブドウ酒やオルゴールも贈呈したそうです。

 

このような利益に着目した九州各地の戦国大名などにはキリスト教徒になるものまで出てきました。

 

キリシタン大名といわれますが、彼らは領内の港に船(南蛮船)を呼んで貿易の利益を多く受けるためにもキリスト教を手厚く保護していました。

 

大分の大友宗麟などのキリシタン大名は少年使節をローマ教皇の元へ派遣したりしました(天正遣欧少年使節)が、彼らはヨーロッパ各地で熱烈な歓迎を受けたそうです。

 

 

④宣教師たちの布教と慈善活動

ザビエル以後次々と来日した宣教師たちは、布教活動の為に各地に教会や宣教師養成の学校、孤児院、養老院(今の介護施設)や病院などを建設し、そこで慈善活動も行いました。

 

このため、民衆の間にも広くキリスト教の信仰が広まっていくのです。

 

17世紀初めには信者が30万人をこえたといわれています。のちに幕府の脅威になるのが分かる数字ですね。

 

そこでは宗教の他に神学や哲学・ラテン語、音楽や絵画、天文学や暦学・数学や地質学などの学問や航海術・造船技術などの技術も一緒に教えられました。

 

世界地図・地球儀・太陽暦・望遠鏡・時計などがもたらされ、宗教画などの西洋絵画の影響からは、日本の狩野派などの画家による南蛮屏風なども描かれるようになったのです。

 

 

(南蛮屏風 出典:Wikipedia

 

 

南蛮屏風では基本的に日本の画法が用いられていたようですが、これらの屏風には「南蛮船」「南蛮の商人」「キリシタンの教会と宣教師たち」が欠かせない要素として描かれていました。

 

また、この頃活版印刷術も伝わり、印刷機も輸入されました。

 

聖書などの布教に必要な書物はもちろん、「平家物語」などの日本の古典書物などがローマ字で印刷され、キリシタン版と呼ばれました。

 

⑤精神的な影響と医学の発展

南蛮文化の影響は単に物品や学問、芸術だけではありませんでした。

 

当時の日本人にとっては、今までにない精神論や世界観との出会いでもあったのです。

 

キリスト教における一神教の教義や、ヨーロッパの一夫一婦制などに基づく倫理などが伝わったのもこの時期でした。

 

また当時の日本では諸外国といえば「インド」と「中国」くらいしか知らなかったのですが、ヨーロッパの存在を知り、大航海時代によって明らかになった世界の広さを知ったのです。

 

小さくまとまっていた日本人の意識が世界に向かうようになる大きな変革をもたらしたのです。

 

宣教師の伝えた影響は医学の発展にも及びます。

 

宣教師ルイス・アルメイダが豊後(大分)にハンセン病患者のための救護院や孤児院などを設立しました。

 

ここで西洋の医術を用いたことで、急速に南蛮医学が広まっていったのです。

 

鉄砲玉の抜き取り手術などの外科手術はここから発展していきます。

 

現在の大分市にはここに由来するアルメイダ病院があります。

 

南蛮文化のその後

 

 

南蛮文化そのものは、江戸幕府の政策により短命に終わるのですが、日常生活に今もポルトガル語由来のカルタ・カステラなど言葉が沢山残っています。

 

またキリスト教の弾圧により宗教関係のものは普及発達しないのですが、医学・天文学・鉄砲(武器)などはオランダ人との交渉が続き、その後蘭学へと繋がり発達していくことで、後世にもつながっていくのです。

 

 

まとめ

 南蛮文化は戦国~江戸初期のヨーロッパの影響を受けた文化。

 ポルトガル人やスペイン人を「南蛮人」と呼んだのでこの呼び名になっている。

 当時盛んだった「南蛮貿易」と宣教師による「キリスト教伝来」の影響が強い。

 時代を変えた武器をはじめ、今日でも使用されている食品や衣類など多くの物品がもたらされた。

 宣教師たちの布教と慈善活動により、新しい学問や芸術が広まっていった。

 鎖国政策により短命に終わったが、その世界観など後の日本人に与える影響は大きいものだった。