日本史の出来事として一二を争うほどの重要な転換点であった「応仁の乱」。

 

この乱によって日本は戦国時代という下克上や血で血を洗うような戦乱の時代へと突入していったのでした。

 

今回はそんな『応仁の乱』について簡単にわかりやすく解説していきます。

 

応仁の乱とは?

(応仁の乱の勢力図 出典:Wikipedia

 

応仁の乱とは、室町時代の1467年(応仁元年)に将軍の後継者争いがきっかけで起きた日本で一二を争うほどの大規模な内乱のことです。

 

そしてこの乱は11年続き、120年もの間日本で争いが多発した戦国時代に突入していく原因にもなったのでした。

 

応仁の乱が起こった背景

 

応仁の乱は一般的には将軍の後継者争いによって引き起こされたと思っている人が多いですが、実はこの応仁の乱はそんなことでは片付けられないほどややこしいものだったのです。

 

①将軍の後継者争い

応仁の乱の直接的な原因に将軍の後継者争いがありました。

 

この頃の室町幕府の将軍は第8代将軍足利義政

 

(足利義政 出典:Wikipedia)

 

この方は慈照寺を始めとする東山文化を大成したりと文化人としては一流でしたが、肝心の政務の方はというと全くダメでした。

 

 

そのため、義政はさっさと将軍を引退して文化に打ち込もうとしていたのでした。

 

しかし、ここでとある問題が・・・。なんとその引退した後に将軍となる子供が正室の日野富子の間に生まれません。

 

将軍を引退したいけど、その後を引き継ぐ人がいないとそんなことはできません。

 

そうこうしているうちに時間だけが過ぎ去っていきます。

 

そして義政は「もう、将軍を辞めたいので弟の義視に継がせて引退します!」と宣言。

 

もう子供は生まれないと踏んでいた義政はこれにて政治人生を終わらせることができて念願の文化人としての生活をスタートすることができました…

 

とはならないのがこの世の中。

 

将軍職を継がせると言った直後になんと正室の日野富子が男子である足利義尚を出産します。

 

(足利義尚 出典:Wikipedia)

 

自分の息子を将軍としたい日野富子は「将軍職を継がせるのはこの義尚です!」と宣言。こうして幕府は義視と義尚による後継者争いが勃発していったのでした。

 

②細川家と山名家の争い

幕府が揉めに揉めている中、とある幕府の重鎮2人が争い始めていきます。

 

それが応仁の乱のもう一つの主人公「山名宗全」と「細川勝元」だったのです。

 

(左:山名宗全 右:細川勝元)

 

実はこの2人元々は仲が良く、婚姻関係の一歩手前まで歩み寄ることができたのですが、直後に幕府運営の考え方の違いによって対立してしまいました。

 

中国地方を中心に大きな勢力を持っていた山名家と、畿内や四国地方に強い勢力を持っていた細川家の対立は日本全国の守護大名を巻き込んでいき、そして幕府の後継者争いに介入する結果を招いてしまったのでした。

 

③三管領・四職の後継者争い

幕府や山名家と細川家が争っている中、幕府の要職に就いていた三管領や四職の中でも家督争いが勃発していました。

 

※三管領:将軍の補佐をする役職。細川・斯波・畠山がこの役職を歴任していた

※四職:幕府の政務を担当していた役職。山名・一色・京極・赤松がこの役職を歴任していた

 

特に、管領の役職を歴任していた畠山家の畠山義就と畠山政長との争いは特に大きく、これに対して山名宗全が義就を、細川勝元が政長を支持していったことがのちの応仁の乱の原因の一つとなっていったのでした。

 

応仁の乱のはじまり【経過と結果】

 

「将軍の後継者争い」「細川家と山名家の対立」「守護大名の後継者争い」などさまざまな争いによって準備が整えられた応仁の乱。

 

そんなことをしているうちに山名宗全は、日野富子が推している義尚を擁立して西軍に、一方の細川勝元は足利義政が推している足利 義視を擁立して東軍になってついに争いの幕が上がることになるのでした。

 

(足利 義視 出典:Wikipedia)

 

ちなみに、山名宗全が西軍としておいた本拠地の地名がのちの西陣織の名前の由来にもなっています。

 

①東軍の快進撃

こうして山名宗全と細川勝元の主導で始まった応仁の乱。

 

しかし、初期の方は将軍の後ろ盾があり、兵力差で勝っていた(西軍11万、東軍16万)ため東軍の方が優勢でした。

 

東軍はこの勢いのまま西軍の重要拠点を次々と占領します。

 

そして西軍を降伏一歩手前にまで追い込み、ここままいけば応仁の乱は東軍の勝利で終わると思われました。

 

②大内家の参加で拮抗する戦争

ここまで全くいい所のない西軍。このままいけば東軍に押し負けてしまいます。

 

しかし、西軍は大内家の参戦によって一気に持ち直すことになるのです。

 

当時大内家は周防・長門・筑前・豊前4ヶ国の守護大名であり、細川家とは寧波の乱などで日明貿易の主導権を巡って度々争っていました。

 

 

この大内家の参戦はかなり大きく影響し、東軍に占領されていた拠点を奪還します。ついには戦局を立て直して両軍は拮抗状態へと突入していったのでした。

 

そして、その拮抗状態によって京都は大混乱。

 

当時の戦いの主流が放火ということもありかつて繁栄を極めていた京都は火の海と化してしまい、鹿苑寺や清水寺などといった京都の名だたる寺も消失してしまいました。

 

さらに東軍は大内家をなんとか離脱させたいと、大内家の領国にいた国人という領主に向けて東軍に着くように工作を開始します。

 

このことが後に応仁の乱を地方へと波及する一因となり、戦国時代に突入する大きな一歩となったのです。

 

③泥沼状態の戦争と山名宗全と細川勝元の死

こうして大内家の参加によっていろいろ無茶苦茶となっていった応仁の乱ですが、この頃になると守護大名たちは「なんのために争っているのだろう?」と疑問に思うようになっていきます。

 

そもそも応仁の乱とは将軍の後継者争いが発端となった争いでしたが、この頃になると守護大名たちはそんな原因を忘れており、ただ単に自らの家の争いに打ち込むようになっていきました。

 

そのため、なんとかつて義視を擁立していた東軍が義尚を擁立するようになり、またかつて義尚を擁立していた西軍が義視を擁立するようになるなど、もはや収拾がつかないほどの大混乱状態になっていました。

 

そんな上の空の内乱でしたが、1473年に細川勝元と山名宗全が相次いで亡くなったことを機に内乱は沈静化します。

 

いろいろあって義尚が第9代将軍に就任し、応仁の乱はそれぞれの総大将の息子が和睦したことによって終結しました。

 

(足利義尚 出典:Wikipedia)

 

応仁の乱の影響

 

こうして11年間争い続け京都を焼け野原にした応仁の乱でしたが、この応仁の乱のお陰で各地の守護大名が京都に集まっているという状況で、守護大名の領国は地方の守護代が代わりに治めるという形をとっていました。

 

しかし、この11年間の争いの間に守護代が地方にて力をつけ始め、守護大名に並ぶほどの権力を得ていくことになります。

 

さらに、応仁の乱で戦力を消耗していた守護大名を倒すことなんて非常に簡単です。

 

そのため、各地で守護代による反乱が横行します。

 

有名なところでいうと越前の朝倉家や出雲の尼子家が守護大名の乗っとり下克上を達成。

 

各地で下克上が起き、日本中で戦乱が起きた戦国時代へとつながっていくことになるのでした。

 

まとめ

 応仁の乱とは、1467年に起きた室町幕府における大規模な内乱のこと。

 応仁の乱が起こった背景には将軍の後継者争いや山名家と細川家の対立や守護大名の後継者争いなどいろいろな対立構造があった。

 応仁の乱は最初は東軍優勢だったけど、大内家が参戦してからは膠着状態となり、京都は火の海となった。

 応仁の乱が終結した後、地方では守護代が台頭していき下克上の風潮が現れ戦国時代へと突入していった。

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