【義和団事件とは】簡単にわかりやすく解説!!スローガンや北清事変・日本との関係など

 

外国人を排斥する運動は今でも世界では行われていますが、過去にはこの運動によって返って外国人が流入していき、挙げ句の果てには列強の植民地となっていった国が存在しているのです。

 

今回はそんなことが起きてしまった『義和団事件(ぎわだんじけん)』について簡単にわかりやすく解説していきます。

 

義和団事件とは?

(天津での戦い 出典:Wikipedia

 

 

義和団事件とは、1900年に起こった義和団という宗教団体が外国人排斥を行い、それに乗じて清がイギリス・フランス・オーストリア・ロシア・日本・英領インド・アメリカの8ヶ国に宣戦布告した事件です。

 

この義和団事件によって清はより一層外国の侵略を招いてしまい、この事件以降に日本とロシアとの関係が悪化してしまって日露戦争の遠因関係となってしまいました。

 

ちなみに、この義和団事件は、義和団の乱・北清事変(ほくしんじへん)・北清事件(ほくしんじけん)・庚子事変(こうしじへん)・清国事変など様々な呼ばれ方がされていますが、本記事では義和団事件で統一させていただきます。

 

それではここからは義和団事件が起こった背景から経過・その後について解説していきます。

 

義和団事件が起こった背景「清の列強分割」

(中国が列強により分割されている風刺画 出典:Wikipedia

①外国の侵略とキリスト教の流入

時は19世紀、かつて『眠れる獅子』と恐れられた清はアヘン戦争の敗北以降イギリスやフランスなどの列強に分割させれていくことになります。

 

さらに30年前は清と同じぐらいの軍しか持っていなかった日本に日清戦争において敗戦。

 

 

このあまりにも情けない清と日清戦争以降急速に国土を分割していくことに対してもちろん清の国民は不満を抱いていきますが、そんな時に清にキリスト教がどんどん入っていきます。

 

清におけるキリスト教は一応広州などの清が決めた一部の港のみでの布教は許可されていたのですが、アロー戦争の講和条約である津条約によって清全土にて布教が許可されるようになりました。

 

 

こうしてキリスト教の布教の自由を手に入れた宣教師は各地で布教を行っていくのですが、清の国民から見たらキリスト教宣教師は侵略してくる人と同じです。

 

こうして各地にてキリスト教宣教師の排斥が起こってしまいました。

 

②義和団の誕生

(義和団のメンバー 出典:Wikipedia)

 

 

こうしてキリスト教との対立を深める清ですが、これを受けて山東省ではとある宗教団体が誕生します。

 

昔々中国大陸では白蓮教と呼ばれる宗教が信仰されていました。

 

白蓮教は弥勒菩薩を信仰している宗教でしたが、19世紀に入ると拳法によって刀や槍にも負けない完全無欠な体を手に入れることができるという、いかにも怪しい『義和拳(ぎわけん)』を清の民衆に広めそれがどんどん支持されていきます。

 

義和団というのは簡単に言えば清を助けて西洋を滅ぼすという『扶清滅洋(ふしんめつよう)』というスローガンを掲げて西洋のキリスト教教会や大使館を襲撃するグループ。

 

清の間でも袁世凱のように徹底的に弾圧する人もいれば、この義和団の動きを支持する人も現われ清を二分する結果を招いてしまったのです。

 

義和団事件の始まり

(義和団の兵士 出典:Wikipedia)

①義和団による北京占領

こうして誕生した義和団。

 

この組織は1900年に入るとキリスト教宣教師を襲うだけでは飽き足らず、ついにはヨーロッパ諸国が作った鉄道や電信を破壊します。

 

20万の大軍で一気に北上して北京と天津を占領して北京に駐留していた外国人外交官を次々と殺戮していったのです

 

 

(天津の義和団 出典:Wikipedia)

 

 

この外交官の中には日本人も巻き込まれており、日本を始めヨーロッパの主要国は清に派兵し、ついに義和団と争うことになります。

 

しかし、このことは義和団による独断の行動。当時清を統治していた西太后は最初の頃はこの事を中国民衆の暴動として収めて鎮圧するはずでした。

 

②清の宣戦布告【北清事変に発展】

しかし、義和団事件の内乱を清はなかなか収めることができません。

 

西太后は悩みに悩みます。もしかしたらこのまま内乱が長引けば清はさらに分割されるかもしれません。

 

そこで西太后は一つの無茶苦茶な賭けに打って出ます。

 

なんと清がイギリス・フランス・オーストリア・ロシア・日本・英領インド・アメリカに宣戦布告したのです。

 

 

(結成された連合軍の兵士 出典:Wikipedia)

 

 

清としたらここで義和団と手を組み欧米列強の影響を取り除けたら万々歳です。

 

さらに内乱が起きても義和団は扶清滅洋というスローガンを唱えていますから、別に清に対して危害を加えることはありません。

 

でも、欧米列強からすればこれは鴨がネギを背負ってやってきたのと同然。

 

清が宣戦布告した8ヶ国の連合は一斉に天津に上陸。北京に猛突撃して占領します。

 

 

(イギリス軍による寺院の焼き討ち 出典:Wikipedia)

 

 

世界の陸軍のオールスター軍団VS元農民の素人軍団の構図で清側が勝てるはずもなく、近代化された軍備に圧倒された義和団は鎮圧されてしまい、西太后は西安へと都落ちをする羽目となります。

 

こうして清はあっけなく欧米列強に敗北。

 

清に待ち受けていたのは過酷な講和条約だったのです。

 

義和団事件のその後と講和条約

(紫禁城を制圧した連合軍 出典:Wikipedia)

①北京議定書

義和団事件が鎮圧された後、清は李鴻章を全権として列強諸国と講和交渉に当たります。

 

西太后は全権の李鴻章に対して『清と西太后の地位さえ守れれば例えどんな過酷な条件でも飲め!』と言い放ち、1901年に北京議定書が締結。

 

 

(北京議定書 出典:Wikipedia)

 

 

この議定書にて清は日清戦争の2倍である約4億5千万両の賠償金の支払いと北京周辺の軍隊駐留権と大使館付近における治外法権を清に認めさせました。

 

こうして清はこの北京議定書を決起にさらに分割が加速。

 

清は半植民地の状態に追い込まれてしまい、民衆はこの4億5千万両の支払いのために課せられた重税によって一気に清への不満がたまり、かつて『扶清滅洋』と言っていた清の国民も『掃清滅洋(ふしんめつよう)』というふうに様変わりします。

 

こうして清の崩壊をより早めてしまう結果となってしまいました。

 

ちなみに、この時認められた軍隊駐留権がのちの盧溝橋事件のいざこざにつながっていくということはまた別の話です...

 

 

②中国の独立運動

こうして外国によってボコボコにされた清はこれまでの対外強硬的な考えを改めなければいけないようになってしまい、西太后自身も西洋文化に寛容な態度を取り始めます。

 

こうして清では光緒帝によって光緒新政が開始。立憲君主制への移行や科挙の廃止、さらには軍備の増強など一気に近代化を加速させます。

 

しかし、清の崩壊はすぐそこまで来ており、義和団事件を機に袁世凱の台頭。そして、中国の孫文によって1905年東京で中国同盟会が組織されると清は一気に滅亡へと向かっていくことになりました。

 

③日露の対立

こうして終結した義和団事件でしたが、この8ヶ国の中で特に頑張ってさらに利益を得たのが日本とロシアでした。

 

確かに義和団事件の鎮圧はイギリスやフランスを始め8ヶ国の連合軍が行いましたが、イギリスはこの頃南アフリカ戦争が、アメリカはアギナルドによるフィリピン=アメリカ戦争の対応に明け暮れておりあまり介入することができませんでした。

 

そこで登場したのが中国に近い日本とロシアの出番です。

 

日本はこの北京占領において皆勤賞とも言える働きと規律ある行動で世界から『極東の憲兵』と呼ばれ、のちに日英同盟を結ぶ一つのきっかけとなります。

 

 

その一方でロシアは満州や外蒙古一帯を占領。日本が影響力を強めていた朝鮮と敵対する位置に進出したことによって日露関係が悪化します。

 

その結果、ついには日露戦争に繋がっていきます。

 

 

義和団事件は後のアジアの状況を大きく変える重要な事件でもあったのでした。

 

まとめ

 義和団事件は1900年にイギリス・フランス・オーストリア・ロシア・日本・英領インド・アメリカの8ヶ国に対して義和団と呼ばれる宗教組織が宣戦布告した事件のこと。

 清ではアロー戦争以降、どんどんキリスト教が入っていき清の国民はキリスト教宣教師を排斥していった。

 清は最初は義和団事件を鎮圧しようとしたが、後に清も義和団の方について宣戦布告した。

 義和団事件の講和条約である北京議定書において清は多額の賠償金と軍隊駐留権を列強諸国に与えなければいけなくなり清の滅亡を加速させた。

 義和団事件によって日本とロシアが対立していき日露戦争の原因になった。