太閤『豊臣秀吉』が天下人になってからおこなった政策は様々ありますが、その中でも刀狩については忘れてしまいがちな項目です。

 

なぜなら、鎌倉時代から刀狩がおこなわれていたという内容が日本史の中で残っているからです。

 

今回は、そんな豊臣秀吉のおこなった『刀狩令』についてわかりやすく解説していきます。

 

刀狩令とは

 

 

刀狩令とは、1588年(天正18年)に豊臣秀吉がおこなった農民から刀・槍・鉄砲などの武器を没収する法令のことです。

 

大仏の鋳造を口実に農民から武器を徴収しました。

 

刀狩令の目的・理由

①一揆を防ぐ

刀狩令の目的は兵農分離をおこなうことだと言われています。

 

当時は、農民の武装は当たり前で地侍と呼ばれていました。

 

しかし、豊臣秀吉は過去の室町幕府の状況を見て農民が武器を持っていることに危機感を持っていました。

 

なぜなら、室町時代に農民による一揆が起こっていたからです。

 

依然として武士よりも人数の多い農民たちが武器を持っている場合に団結して一揆を起こされてしまうと政権が安定せず、国力が低下します。

 

日本の統一を果たした豊臣秀吉が見据えていたのは世界です。

 

その証拠に、豊臣秀吉は後に朝鮮出兵をおこなっています。

 

一揆を防ぐためにおこなったというのが1つの刀狩令実施の理由です。

 

 

②安定した年貢の確保

 

 

一揆を防ぐだけではなく、豊臣秀吉は安定した年貢収入を求めていました。

 

その証拠が太閤検地です。

 

太閤検地とは、田畑の等級を上・中・下・下々の四段階に分けて、枡を京枡に一定して石高を計算し、耕地1筆ごとに耕作者を検地帳に書いて年貢負担者を確定した政策です。

 

これにより、荘園制により混乱していた土地所有者を明確にして安定して年貢を確保できるようにしたのです。

 

安定した年貢を集めるためには農民が農業に従事しなければなりません。

 

当時は、農民であっても大名に仕えて武装している農民も居たので、明確に武士と農民を区別することで農業に従事しなければならないものを明確に把握できるようにしたのです。

 

③応仁の乱の再来を防ぐ

 

 

一揆を防ぐということに似ていますが、ご存知の通り豊臣秀吉は戦国時代を経験しています。

 

戦国時代が始まる理由は応仁の乱です。

 

応仁の乱が起きて日本中が戦乱に巻き込まれ、下克上の風潮が強くなりました。

 

やっとの思いで戦国時代を終え、全国統一を成し遂げたのに、再び下克上の世の中になっては世の中が混乱してしまいます。

 

そうした事態を避けるためにも刀狩令はおこなわれました。

 

④治安の維持

 

 

当時は個人同士のトラブルは武力で解決する風潮があり、死人の出るいざこざが多くありました。

 

そのため、豊臣秀吉は武器の使用を停止するために刀狩令を出したとも言われています。

 

実際に刀狩令と合わせて喧嘩停止令を出しています。

 

治安が安定していなければ安心して農業に従事することもできず国力が落ちると考えたことからおこなっていたことです。

 

⑤身分を明確に分けるため

 

 

当時の農民たちは、武士と一般庶民の区別が曖昧でした。

 

日本の村では15歳になると刀指という儀式があり農民も15歳になると脇差を持っていました。

 

そして、領主の命令があると武器を持参して戦いに参加をしていたのです。

 

そのため、農民が武器を持っていることは当たり前で、武士と農民の区別がつかなかったのです。

 

そこで刀狩令により武士と農民の違いを明確にしました。

 

これを兵農分離といいます。

 

⑥京都の方広寺に大仏を鋳造するため

今では表向きの理由として有名ですが、豊臣秀吉は日本一大きな大仏を建造しました。

 

豊臣秀吉が天下人であることを知らしめるための政策の1つであり、日本が安定して平和な世の中が続くように願いが込められているとも言われています。

 

この大仏の鋳造の材料とするために武器を集めました。

 

 

刀狩令の内容

 

 

実際に出された内容は以下のものです。

刀狩令の内容

農民が刀・脇差・弓・槍・鉄砲などの武器を持つことを禁止とします。もしも武器を持つことで年貢を納めなくなったり、一揆をおこしたりして役人の言うことを聞かなければ罰せられてしまいます。

刀狩令によって集められた武器は大仏鋳造のための素材としていちど鉄を溶かしてから再利用される。

農民は武器を持たずに農具のみを持ち農業に務めれば、子孫たちも永遠に幸せに暮らせるので感謝して武器を差し出してください。

 

刀狩令の内容は上述したとおりですが、噛み砕いていくと京都の方広寺に日本一大きな大仏を造るので鉄が足りない。

 

そのため、農民や寺社には武器を差し出して欲しいということです。

 

大仏の鋳造に鉄を使用するので、武器を提出すればその後の人生は幸福になれるとして武器を集めました。

 

万が一隠していた場合には罰するということも明記してあり、隠していた場合には死罪ということもありましたが、神への信仰を試されることになったので農民は武器を差し出した方が良いという結果になったのです。

 

刀狩令のその後の影響

 

 

刀狩令の実施により農民が武士になるということは無くなりました。

 

刀狩令の後には身分統制令も出ており、武士は農民や商人にはなることができず、その反対に農民や商人も武士にはなれなくなってしまったのです。

 

これにより、明確な身分統制ができました。

 

その後、江戸時代には兵農分離の考えを受け継いで士農工商が制定されることになりました。

 

 

そして、農民が武装していないので一揆の発生件数は減り、農業の生産率も向上しました。

 

これにより、安定して年貢を得ることができるようになったのです。

 

その後は、江戸時代でも農民は武器を所持できないという基本方針は変わりませんでした。

 

明治時代になると廃刀令と言われ、刀を取り上げることになり、現在では銃刀法違反のように武器を所持することを禁止しています。

 

 

このように、刀狩令は現在まで形や中身を変えて残り続けているのです。

 

まとめ

・刀狩令とは、1588年に豊臣秀吉がおこなった政策である。

・刀狩令により、武士以外の者は刀や脇差、槍などを持つことができなくなった。

・刀狩令の目的は表向きでは方広寺の大仏建造のため。

・刀狩令の真の意図は、武士と農民の区別をはっきりと分けることと、農業に従事させ、争いごとを減らし年貢の収入を増やすこと。

・刀狩令によって、平和な世の中が訪れ統治がおこないやすくなった。

・刀狩令は現在まで残っており、明治時代の廃刀令、現在の銃刀法違反へと基本の考え方はつながっている。




コメントを残す

CAPTCHA


関連キーワード