日本史上、よく知られている『関所の廃止』ですが、大体の内容はわかっていても、詳しく聞かれると…という人も多いはず。

 

そこで今回は改めてその政策のもつ意味や、なぜ撤廃されたのかなどわかりやすく解説していきます。

 

関所の廃止とは

(復元された碓氷関所 出典:Wikipedia

 

 

交通の要所などにおかれ、防衛と検問のような役目をしていた『関所』、これを廃止することで、人の行き来や物流をスムーズにし、経済の発展を促していったのが、「関所の廃止(1568年に実施)」です。

 

織田信長が行った政策の一つとして高校日本史のテストに出ることが多いですね。

 

まずは関所の歴史を知ろう!

 

 

関所()は地方と中央を結ぶ政治の上でも、交通の面でも重要な場所におかれました。

 

街道の重要地点や国境の峠などに置かれたものは、「道路関」と呼ばれていたそうですが、陸路だけではなく、なんと海路にも「海路関」として置かれていたようです。勿論海上ではないですのでご安心ください。

 

①古代の関所

古代日本では、中央政府を守るための軍事的目的や、農民や犯罪者が逃亡し、地方に悪い噂を広めないようにする為の政治的な情報規制の目的で、各地に関所が設けられていました。

 

「これやこの 行くも帰るも 別れては 知るも知らぬも 逢坂の関」と“色々な人が行きかう場所”として、百人一首にも謳われた【逢阪関】と【鈴鹿関】【不破関】は、東海道と東山道に置かれた畿内を守る三関として特に重要視されていました。

 

②中世の関所

中世になると、朝廷(公家)、幕府(武士)、荘園領主(地方役人)、有力寺院など、力を持つ人がそれぞれ独自に関所を設置して通行税(関銭)を取るようになります。

 

室町時代には京都七口関として、京都へ向かう道全てに関所が置かれ、必ず通らなくてはならない状態もつくられました。

 

これらの関所が交通の大きな妨げになってはいたのは確かですが、同時に関所を設置した権力者達には、関銭を納めた通行者への安全義務がありました。

 

そのため、傷んだ道を補修したりする道路の保全、海賊等の危険を予防する海上での安全確保など、通行の安全を保証してもらうことも出来ていたようです。

 

関銭は権力者の収入源としてだけではなく、現在の高速料金みたいな側面もあったのですね。

 

戦国時代に入ると、戦国大名たちは自分の領内を一円支配したいと考えるようになるので、権力者たちがそれぞれに設置する関所は少しずつ姿を消していきます。

 

そして、全国統一を果たした織田信長や豊臣秀吉は関所の廃止を実施するのでした。

※こちらが本記事の本題!次の項で解説します。

 

③近世の関所&関所の廃止

江戸時代には、幕府や諸藩が治安維持を目的として再び関所を設置します。

 

基本的には幕府の為の関所ですので、江戸への主要道路や港、幕府の直轄領などに置かれました。

 

その中には警備や見張りの為の番人を置く【番所】が置かれ、人や荷物の確認、徴税など行っていました。

 

「関所」は、武家諸法度により設置が規制されていたので、中世のように各地に乱立することはなかったのですが、代わりにこの「番所」が諸藩でも色々な所に設置されて、関所のような役割を果たしていたと言われています。

 

 

ちなみに、海の関所を【船番所】とも呼んでいましたが、船が寄港する港や河川に設置されていました。

 

関所で特に厳しく取り締まられたものとして『入り鉄砲』と『出女』がありますが、これらは、『江戸に入る武器』と『江戸から出る諸大名の妻』の監視を指しています。

 

徹底した防衛体制がとられていたのですね。ちなみに『出女』が必ず持っていなくてはならないものに【通行手形】がありましたが、これは今のパスポートのようなものみたいでした。

 

この時代の関所は今でいう「入国管理局」みたいなものだったのかも知れませんね。

 

これらの関所は、1869(明治2)に明治政府によって廃止されるまで、約250年もの間長きにわたり江戸を守っていったのです。

 

 織田信長はなぜ関所を撤廃させた!?

(織田信長 出典:Wikipedia)

 

 

このように古代からあった関所ですが、その中でも特に中世の関所は防衛面よりも経済面で重要な意味を持っていました。

 

信長より前にすでに領内の政策として「関所の廃止」を実施した戦国大名もいましたので、『関所を除くことが、人や物の流れを良くする方法』であることはある程度理解されていたようです。

 

ただ、その政策を徹底的に行い、そして展開したという点が、信長の政策が大きく注目される要因といえます。

 

①経済的な効果

当時何百という単位で設置されていた多くの関所、その通行時に度々通行料を払い、足止めされていたとしたら、どれだけ時間とお金の無駄だったかは想像がつくでしょう。

 

1568年、信長は自分の領地の関所を廃止しました。天下統一を進めている信長の領地内ですので、その範囲は非常に広かったのです。

 

これにより、関銭を徴収する場の多くがなくなります。人や物が今までより経済的負担の少ない状態で諸国を行き来することが出来るようになり、諸国が活気づきました。

 

また、商品に物流経費がかからないということは価格を抑えることができるということですので、商品の価格が安くなり購入する人も増え、商業が活性化したことで、都市も発展していったのです。

 

これにより信長は民衆からも大きな支持を得るようになりました。

 

②政治的な効果

関所の関銭は、権力者たちの重要な収入源でした。

 

特に公家や寺院などには戦国期の争乱によって本来得るはずの土地からの税収が減少してしまっていたため、関銭で得られる収入は貴重なものとなっていたのです。

 

それらを撤廃することで公家や寺院の経済的基盤を失わせ、政治的な発言力をも奪っていったのでした。

 

また同時に、関銭は地方の国人の収入源でもありましたので、地方の武装勢力に対する資金源を断つ、ということも出来たのです。

 

勿論権力者や国人たちからの大きな反発もありましたが、他の戦国大名とは違い、信長がこの政策を徹底的にできたのは、経済的な効果を受けての民衆の後押しとともに、何よりも反対勢力を退ける強大な軍事力があったからということが大きいのです。

 

信長の後、秀吉も同政策を引き続き進めますが、同じく天下統一の軍事力があってこその展開だったといえるでしょう。

 

信長の誤算

(本能寺焼討之図 出典:Wikipedia

 

 

多くの効果を出した信長の「関所の廃止」でしたが、大きな誤算といえば、関所の防衛面としての役割をもなくしてしまった点だったと思われます。

 

あの本能寺の変も、もし近くの関所が残っていれば、明智軍の侵攻を止めることが出来たのかも…とも言われています。

 

 

まとめ

・関所には、検問による防衛の機能と、通行料徴収などによる収入源としての機能があった。

・関所の廃止によって、人と物が自由に行き来できるようになった。

・関所の廃止により通行料負担が無くなり、商業の活性化と、都市の発展が促された。

・信長は、民衆からの人気と強い軍事力で「関所の廃止」を敢行できた。

・信長の「関所の廃止」は1568年に実施、語呂合わせは「以後(15)のこずかいは無理や(68)で!関所はなくなったし!」で覚えるとよい。

・関所の廃止で経済基盤の一部を失い、公家や寺院などの没落は進んでいった。

・江戸時代には幕府を守るために関所が再配置された。

・関所の全廃は、1869年明治政府によって実施。

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