【織田信秀の生涯とは】人物像や経歴をわかりやすく解説!!性格や死因・葬儀などについて

 

今話題のNHK大河ドラマ『麒麟がいく』

 

大河ドラマ『麒麟がいく』で、後の明智光秀の主君となる、織田家のことが気になっている方も多いと思います。

 

2020年の大河ドラマ『麒麟がくる』は、明智光秀(あけちみつひで)を中心とした歴史群像劇です。

 

 

明智光秀が生きた時代は、「下剋上の戦国時代」。そのため、大河ドラマ『麒麟がいく』では、明智光秀を中心に明智光秀を取り巻く人物たちが数多く登場します。

 

その中には、あの織田信長の父である織田信秀(おだのぶひで)も登場します!

 

今回は、尾張国を一大勢力へと成長させた織田信秀について、経歴をはじめ、性格や死因、葬儀などについても織り交ぜながら、お話ししていきます。

 

織田信秀の生涯

(織田信秀と妻「土田御前」)

 

まず最初に、織田信秀(おだのぶひで)はどのような生涯を送ったのでしょうか?その生涯を追ってみましょう。

 

織田信秀の生涯年表

 

  • 1511年 生まれる
  • 1526~1527年 この間に家督を継ぐ
  • 1538年 今川氏豊から那古屋(なごや)城を奪い取り、居城にする
  • 1534年 息子・織田信長誕生
  • 1539年 古渡城を築城、居城を移し、熱田を支配
  • 1540年 三河国の安祥城を攻略
  • 1542年 今川義元を小豆坂で破る
  • 1544年 加納口の戦いで斎藤道山と美濃を巡って争うが敗北
  • 1548年 末森城を築城、居城を移す
  • 1548年 第二次小豆坂の戦いで今川軍に敗北
  • 1552年 末森城にて死去(享年42歳)

 

織田信秀の経歴は、戦いや策略によるものが多いことが分かりますよね。

 

それもそのはず、織田信秀こそが織田家の基礎を築いています

 

織田信秀のこのような戦歴や策略による勢力拡大があったからこそ、息子の織田信長がさらに勢力を広げられたといってもよいでしょう。

 

織田信秀の人物像に迫る!

 

織田信秀は通称「尾張の虎」と呼ばれた戦国大名です。

 

織田家の勢力を拡大するために数々の戦功を成し遂げたり、策略による築城を数多く行っていることから、「尾張の虎」と呼ばれるのも納得がいきますよね。

 

織田信秀は、1551年に尾張国(現在の愛知県稲沢市)にある勝幡城(しょばたじょう)で長男として生を受けました。

 

父は勝幡城城主の織田信定(おだのぶさだ)、母は含笑院(がんしょういん)と言います。

 

当時の尾張国は、尾張国守護の斯波氏(しばし)を筆頭に、織田の本家や分家など、数多くの勢力が入り乱れていました。

 

織田信秀の一族は、尾張の南4郡を支配する守護代・織田大和守に仕える清州三奉行のひとつである、弾正忠(だんじょうのちゅう)と呼ばれる家でした。

 

では、そんな分家の一つであった織田信秀の一族が、尾張国を支配するに至ったのはどの様な経歴だったのでしょうか。

 

①居城移動を繰り返していた

織田信秀は、15歳になった年の1526年に家督を譲られると勢力拡大に動き出します。

 

織田信秀の経歴を見ての通り、織田信秀は居城を移動していることが分かります。これは、他の有力大名にはない行動だったのです。

 

まず、1538年ごろに那古屋城(現在の名古屋市中区)を当時居住していた今川義元の弟で那古屋城城主の今川氏豊(いまがわうじとよ)から奪い取り、居城を移したのちに、愛知郡(現在の愛知県名古屋市周辺)に進出するのです。

 

その後、同じようにして古渡城(ふるわたりじょう/現在の名古屋市中区)を築き居城を打つ知多の地、熱田を支配します。

 

そして、1548年には末森城(すえもりじょう/現在の名古屋市千種区)を築いて居を移します。

 

これは、織田信秀特有の戦略だったとされていて、居城を転々とすることで織田家の勢力を伸ばし、経済基盤を拡大していったのです。

 

また、ちゃっかりと伊勢神宮の遷宮や内裏修理のために多額の寄付を行うなど、朝廷までも味方に取り、信頼を勝ち得ます。

 

こうして、尾張国トップだった斯波氏をも上回る地位を確立したのです。しかし面白いのは、臣従関係は保っていたということです。

 

②松平家や斎藤家、今川家とも戦う

織田信秀は、勢力拡大のために徳川家の祖である松平家や今川家、マムシと呼ばれた斎藤道三を筆頭にした斎藤家とも相まみえています。

 

 

1529年に、松平清康(まつだいらきよやす)に一時的に領地を奪われます。

 

しかし、松平清康が家臣に殺されたことに乗じた織田信秀は、1540年に三河国の安祥城(あんじょうじょう/現在の愛知県安城市安城町)を攻略します。

 

その後は、この土地を巡って、今川義元とそのブレーンの太原雪斎と小豆坂の戦いが勃発。ここで織田家の人質となっていたのが、後の徳川家康(竹千代)なのです。

 

 

織田信秀は、さらに1544年に美濃国(現在の岐阜県)が乱れていたことに乗じて美濃に出兵し、斎藤道三によって追放された土岐頼芸(ときよりあき)とらと結託し、斎藤道三と熾烈な争いを繰り広げていきます。

 

③織田信秀、四面楚歌になる

織田信秀は、その奇想天外な策略で勢力を拡大していきました。

 

しかし、周りを見渡してみると、斎藤氏や今川氏といった敵に囲まれてしまいました。

 

織田信秀は臆せず、勢力拡大を止めることはなく、1544年には斎藤道三の居城・稲葉山城を攻撃!しかし、織田信秀は敗北を喫します。

 

それと同時に、自分の甥で犬山城の城主である織田信清に謀反を起こされます。織田信秀は何とか鎮圧するも、この隙を見た斎藤氏によって、大垣城を奪い返されてしまいます。

 

さらに、1548年に今川軍がやってきて第二次小豆坂の戦いが勃発。織田信秀はここでも敗北をしてしまうのです。

 

これにより、織田信秀は美濃国と三河国において力をなくしてしまいました。

 

④織田信秀の死。葬儀が派手!

そんななか織田信秀は諸説ありますが1552年に末森城で亡くなります。享年42歳でした。

 

はっきりとした死因は不明ですが、流行り病と言われています。

 

その葬儀はビックリするほど盛大で、なんと僧侶を300人呼び寄せた壮大なものだったそうです。

 

⑤織田信秀の人物像

織田信秀は、智勇に優れた武将であるとされていて、困難や苦難にも負けず、戦い抜いた兵(つわもの)と言われています。

 

また、息子の織田信長とは信頼関係があったと言われています。

 

悪評高かった織田信長に家督を譲ったのは、もしかしたら織田信秀がその才能を信じていたからなのでしょう。

 

麒麟がくるで織田信秀は「高橋克典さん」が演じる!

大河ドラマ『麒麟がいく』で、不屈の精神の持ち主、織田信秀を演じるのは、大河ドラマ初出演となる俳優の高橋克典さんです。

 

 

1964年生まれの高橋克典さんは、俳優以外にもミュージシャンとして活躍しています。実は高橋克典さん、学生時代はラガーマンだったことをことをご存じでしたか?

 

高橋克典さんのもつハードボイルドな雰囲気は、織田信秀の異名である「尾張の虎」にぴったりなのではないでしょうか!?

 

大河ドラマ初出演の高橋克典さんの織田信秀の演技に目が離せません!

 

▼織田信秀の妻「土田御前」について

 

まとめ

まとめ

 

 織田信秀は、通称「尾張の虎」と呼ばれている、織田信長の父として有名。

 

 当時、権力が入り乱れていた尾張国で、最終的にトップに君臨していた斯波氏を上回るものの、臣従関係は保っていた。

 

 他の戦国大名がやらなかった居城を繰り返し、勢力および経済基盤を拡大した。

 

 朝廷をも味方につけ、その地位を確固たるものにした。

 

 勢力争いで、松平家や今川家、斎藤氏とも対決していく。

 

 最終的には四面楚歌となり、奪った美濃国や三河国を手放すことになる。

 

 織田信秀は智勇に優れ、何度でも立ち上がる不屈の精神を持っていた。

 

 息子の織田信長とは信頼関係があった。

 

 ドラマ『麒麟がいく』で織田信秀を演じるのは、大河ドラマ初出演となる高橋克典さん。