「成金」という言葉が生まれた大戦景気。

 

今回は、この『大戦景気(たいせんけいき)』がなぜ起こったのか、背景や影響についてわかりやすく解説していきます。

 

大戦景気とは?

(好景気に沸く1919年 東京停車場前の風景 出典:Wikipedia

 

 

大戦景気とは、明治以来ずっと不景気だった日本に突然訪れた好景気(1915~1920年の間)のことを言います。

 

この好景気のきっかけは第一次世界大戦。この大戦が日本に特需をもたらしたのです。

 

連合国側に軍需品を提供したほか、ヨーロッパが戦闘に巻き込まれている間に世界市場に打って出ました。

 

また、ヨーロッパから機械や化学製品が入ってこなくなったため、自前の工業が育つことになりました。

 

大戦景気はなぜ起こった?背景や理由

(第一次世界大戦「逃亡するフランス人家族」 出典:Wikipedia

①最初は不景気だったが、軍需品の注文が増加

第一次世界大戦がはじまると、日本国内は一時的に不況に陥りました。

 

ヨーロッパ向けの輸出品が止まってしまったり、原料となる鉄や薬品、染料などが入ってこなくなったためです。

 

ところが1915年には米英仏をはじめとする同盟国からの注文が増えました。

 

兵器や軍需品、食料などが自国では供給できなくなり、同盟国らは日本にそれらを求めたのです。

 

②アジア・アフリカ・アメリカからも注文

アジアやアフリカでもヨーロッパからの輸入品が途絶えたため、日本に綿糸や綿布、綿織物を求めました。

 

一時期はアジア・アフリカに出回る綿製品のほとんどが日本製でした。

 

また、日本同様に戦争のダメージが少なかったアメリカに向けて生糸の輸出も増えました。

 

アメリカも好景気で、絹のストッキングなどに使う生糸の需要が増えていたのです。

 

ヨーロッパで作っていた様々な物資が不足する中、日本の工場は「作れば売れる」という状態になってたため、工場はフル稼働が続き空前の好景気となりました。

 

大戦景気の輸出品

 

 主な輸出品は以下のようなものです。

 

主な輸出品

  • 綿糸・綿布・綿製品
  • 食料品(米・豆など)
  • 銅、亜鉛
  • 生糸
  • 船舶

 

大戦初期は軍需品や繊維製品など軽工業品が中心でしたが、大戦中に造船業が飛躍的に発達すると船舶を輸出するまでになりました。

 

世界的な船不足を背景に、日本船の建造トン数は1913年の約5万トンから1918年の62万トンに急増しています。

 

活況をみせる海運と造船

(船成金の風刺画:お金を燃やして明かりとする。この当時の百円は現在で数十万円の価値がある)

 

 

戦争の影響で船は不足し、ヨーロッパの船会社では輸送を賄いきれなくなっていました。

 

これをチャンスと見た日本の船会社は欧州航路に乗り出し、航路を着実に増やしていきました。

 

日本のナンバーワン船会社、日本郵船の航路は戦前の3から13まで増えました。

 

①日本郵船の配当は11

海運・造船の活況で日本郵船の株式配当は1918年に110%になりました。

 

現在良いといわれている株式配当は4~5%ですから、凄まじい儲かりぶりがわかります。

 

②鈴木商店「鉄ならば何でも買え」

(鈴木商店本社屋 旧ミカドホテル)

 

 

鈴木商店は樟脳、砂糖やハッカをあつかう小さな貿易商でしたが、大戦による鉄不足を見越して投機的な買い付けを行い、外国同士の売り買いを取り扱う三国間貿易で大儲けします。

 

一時は三井・三菱をしのぐほどの売り上げをあげ、大躍進しました。

 

 重化学工業の発展

ドイツからの輸入品である薬品や染料が途絶えたため、輸出で儲けるには自分たちでつくる必要がありました。

 

政府の援助もあって化学工場が建設され、化学工業が発展しました。

 

また、同様に機械も輸入がストップしたため、自国生産できるよう機械工業が発展しました。

 

大戦景気で力をつける財閥

大戦景気の中、三井・三菱・住友・安田などの財閥は好景気を追い風に業績を伸ばしました。

 

傘下の商社による貿易や銀行による資金の貸し出し、工業製品の輸出、鉱山の開発などあらゆる分野で発展し、独占が強まりました。

 

大戦景気により発展する日本

①農業国から工業国へ

1918年には工業生産額が農業生産額を上回り、日本は工業国へと変わりました。

 

インド綿花などの原材料を輸入し、国内で糸や布に加工して輸出する加工貿易が盛んになりました。

 

軽工業だけでなく、鉄鉱石やくず鉄を海外から買い求めて鉄鋼をつくったり、鉄から機械や船を作ったりする重工業も発展していきます。

 

輸出のライバルは戦争中ですから、まさに日本の経済はイケイケどんどんでした。

 

②蒸気力から電力へ

産業に欠かせない動力も、猪苗代発電所ができるなどして、蒸気力からコストの安い電力に切り替わっていきました。

 

1917年には電力が蒸気力を上回っていきます。

 

③債務国から債権国へ

こうした大戦景気によって赤字だった日本政府の財政は黒字に転換し、外国からの借金(債務)を返して、逆に外国にお金を貸すようになります。

 

戦争を続けるためにイギリスやフランスロシアは公債を発行し、日本が引き受けました。

 

大戦景気と米騒動

(米騒動により焼き払われた鈴木商店本社)

①賃金上昇よりインフレのほうが早い

戦争によるインフレや輸出によって国内の物資が品薄になったこともあり、物価もどんどん上がりました。

 

大戦景気の間に物価は約2倍に上がったのです。

 

収入はそれに見合って上昇したわけではなく物価の上昇に追いつかなかったため、人々の暮らしはかえって苦しくなりました。

 

②米価の値上がり

大正年間には工場で働く労働者が増え、農家も養蚕などで収入が増えたため米を食べる人が増えていました。

 

一方で農村からは人が減ったため米の生産量はあまり増えません。また、大戦の影響で輸入も減りました。

 

そして、1918年ごろから米の値段が上がり始めると、地主や商人は米の投機的な売り買いで儲けようと売り惜しみや買い占めを行うようになります。

 

需要が増えたことと投機が行われたことで米価は急上昇しました。

 

③富山の女性たち

日本海側の女性は美人と働き者で有名です。

 

1918年、そんな富山の女性たちが一揆をおこしました。

 

夫が出稼ぎで、自分も日雇いで働く女性たちが毎日のコメにも困るほど価格が上昇していたのです。

 

女性たちは米が船に積み込まれるのをみて、実力で阻止しました。

 

この騒動が新聞で伝えられると全国42の都府県に米の安売りや賃上げ要求をもとめた騒動が広がり、鎮圧に政府が軍隊を出すほどでした。

 

 

まとめ

 大戦景気は1915~1920年の好景気にこと。

 アジアは綿、アメリカは生糸、ヨーロッパは軍需品と食料を注文。

 国内の重化学工業が発展し、日本は農業国から工業国になった。

 財政が良くなり債務国から債権国になった。

 庶民の生活は苦しく、米騒動が起こった。

 

おまけ!!大戦景気のお金の使い道

この時期、日本は中国に対しても政治的・軍事的な目的をもってお金を貸し付けました。中華民国の段祺瑞政権に巨額の借款を与えた西原借款などが有名です。

 

交渉に当たったのが寺内正毅首相の私設秘書、西原亀三だったためこの名前がつきました。

 

この借款は日中双方で批判され、中国で交渉にあたった曹汝霖は五・四運動で自宅を襲われました。また、段が失脚したためほとんど償還されませんでした。




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