【民法典論争とは】わかりやすく解説!!意味や問題点!反対派の穂積八束など

 

大政奉還から始まった明治維新は、四民平等、廃藩置県など社会制度の変化をもたらします。

 

それに続いて、法律の整備も行われるようになります。そこで、起こったのが民法典論争でした。

 

今回は、そんな『民法典論争』についてわかりやすく解説していきます。

 

民法典論争とは

民法典論争とは、1889年(明治22年)から1892年(明治25年)、旧民法の施行を延期するか断行するかどうかを巡って行われた論争のことです。

 

論争の対象となったのは、財産法と家族法でした。財産法はお雇い外国人のフランス人法学者ボアソナードが起草し、家族法は磯部四郎をはじめとする日本人学者が起草しました。

 

この旧民法が日本の伝統的な儒教の思想である忠孝を排除して、フランス流個人主義を基にしているということが、日本の現実と合わないと批判が上がったのです。

 

民法が作られた背景

 

 

明治政府が民法を作ろうとした背景には、外的要因と内的要因がありました。

 

①不平等条約

江戸時代末期に鎖国が解かれ、日本は西洋諸国と通商を始めますが、そこには諸外国と不平等条約を結んでいるという問題がありました。

 

明治に入り、この問題に対する不満が高まっていきます。治外法権などの不平等条約を改正して、西洋諸国と対等な立場になることは、政府としても解決を急ぐ課題となっていたのです。

 

ただ、改正をするには、国内に西洋主義に基づく様々な法典が必要でした。というのも、西欧諸国が治外法権を主張した理由として、日本などアジア諸国に西洋的な法律が存在しないということがあったからです。

 

②五か条の御誓文

1868年に明治維新が始まると、明治天皇は「五か条の御誓文」で、明治政府の基本方針を示します。

 

 

そこには、「旧来の陋習を破り、天地の公道に基づくべし。」という一文があるように、古い封建制や閉鎖性を打破して、天然自然の道に基づいて行動すべきである、ということが方針として示されたのです。

 

これに基づいて、国内では人民の権利を確立して不公平を無くし、地方ごとに決められていた法制度を全国的に統一する必要がありました。

 

③フランス人法学者ボアソナード

明治になる前から、民法を編纂する作業は始まっていました。江戸時代末期にフランスのパリで開かれていた万国博覧会に派遣されていた幕臣により、フランス法が儒教の道と通じるものがあると紹介されました。

 

その後、明治政府は万国博覧会の使節団の一人だった旧幕臣に、民法作成のためにフランス法典の翻訳を命じます。こうした流れで、旧民法はフランスの思想から大きく影響を受けます。

 

さらに、明治政府のお雇い外国人として、フランス法学者のボアソナードが刑法原案の起草をします。

 

その後、ボアソナードは民法典編纂の草案起草を委託されるのです。ボアソナードは1873年から1895年まで日本に滞在し、明治政府の法律顧問として招待されます。現在の東京大学で教鞭も取りました。

 

民法典論争の詳細

 

1889年7月には、民法典が完成されます。その翌年には元老院の決定を経て成立し、1891年から施行される予定でした。

 

①何が論争を呼んだのか?【問題点】

民法典論争のきっかけは、民法が成立する以前の1889年5月に法学士会からの意見が提出されたことでした。

 

その内容は、法典編纂を急ぐことを戒めており、緊急に必要なものは単独で法律を制定し、法典全体は草案を一般に広め、批評も考慮して十分に審議をして完成すべきというものでした。

 

明治初期には国内法を統一することに重きを置いていたのが、この頃には不平等条約の改正が明治政府の第一課題となり、そのために民法典の編纂と成立を急ぐ姿勢が見られました。こうした政府のやり方に批判が上がったことが論争の始まりだったのです。

 

そして、民法典の施行を延期する「延期派」と施行の断行を主張する「断行派」に分かれて論争が続きます。

 

②延期派の意見

法学士会の意見をきっかけとして、民法典の施行を延期するのか、断行するのかで、延期派と断行派という二つの意見が対立します。

 

延期派の代表的な人物として穂積八束があげられます。

 

(穂積八束 出典:Wikipedia

 

 

法学者であった穂積八束は、法典論争の中で、「民法出デテ忠孝亡ブ」という論文を発表します。

 

これは、フランス流の民法が成立して、日本に伝統として続いている儒教の忠孝という思想が滅びるという内容のものでした。この論文はテーマがセンセーショナルで注目を集めます。

 

③断行派の意見

延期派が西洋風の個人主義が日本の伝統にはなじまないと主張する一方、施行を断行せよという断行派には、ボアソナードや法学者の梅謙次郎がいました。

 

(梅 謙次郎 出典:Wikipedia

 

 

ボアソナードは、延期派の意見に日本古来の家族制度に多少の変更を加えただけであると反論しました。また、日本が西欧諸国に対して、対等に条約改正をするには国内の法律を確立する必要があり、法典編纂をむやみに延期するのはどうかとの意見も出しています。

 

これは、梅謙次郎の意見とほぼ同じで、梅もまずは法律を施行して修正すべきところは後日修正すればよいというものでした。

 

民法典が成立する以前にも、多くの法律が統一されてた形ではありませんが存在しており、それが役割を果たしていたということもあります。

 

民法典論争の顛末

 

 

民法典論争は、国会の外でも論争を呼びました。結局、民法典はどのように成立をしたのでしょうか。

 

①第二次伊藤内閣

(伊藤博文 出典:Wikipedia

 

 

1892年8月に、第二次伊藤内閣が成立します。首相の伊藤博文は10月に延期派と断行派の両派に配慮して、両派から構成された「法典施行取調委員会」を設置します。延期派には穂積八束、断行派には梅謙次郎がいました。

 

この委員会で両派は激しく論戦しますが、11月に天皇の裁可を受けて、法律案はここで法律として正式に確定します。そして、1898年12月31日までに全編修正のための延期決定がされ、民法典論争は終わりを見ます。

 

②明治民法の成立

論争を経て、1898年7月16日から民法典全体において実施されることになり、明治民法が成立します。

 

実施後1年には西欧諸国との新条約が実施されることになり、領事裁判権が撤廃されることになりました。

 

 

この民法典成立が急がれた背景には、1894年の日清戦争が影響を与えています。

 

 

日本は日清戦争で勝利をして、その国力を世界に認められました。そのため、安政時代の不平等条約に代わって日英条約が結ばれます。

 

日英条約には、5年後に条約が効力を発するということが書かれていたのですが、民法や商法などの法典が実施されなければ、条約の実施を延期するとも書かれていました。

 

③家族制度を巡る意見

民法典論争で激しく議論されたのは、家族制度や戸主権でした。明治民法が成立し、日本に古くから根付いていた家父長制が西洋風の個人主義にとって代わられたのです。

 

婚姻制度も、今までは慣習として家父長の許可が必要でしたが、当事者同士の届け出制度になりました。それによって、従来の家父長の権利が弱まることになったのです。

 

明治民法が成立した後も、民法批判の論争は続きました。特に、穂積八束の影響を強く受けた教育分野では、民法を個人主義に傾きすぎる、日本伝来の道徳や忠孝を法律と一致させよという非難は続きました。

 

まとめ

・民法典論争とは、1889年から1892年まで続いた民法典を施行するか延期するかの論争である。

・論争には、施行を強行する断行派と施行を延期する延期派があった。

・旧民法の草案を中心になって起草したのは、フランス人学者のボアソナードである。

・延期派の穂積八束は「民法出でて忠孝亡ぶ」という論文を発表する。

・民法の成立で、日本が慣習として伝統的に持っていた儒教の教えが西洋の個人主義にとってかわられる。