今川義元と言えば海道一の弓取りと恐れられた戦国大名で、多くの戦国時代の作品に登場する比較的著名な戦国武将です。

 

 

2020年の大河ドラマ「麒麟がくる」にも登場します。

 

ですが、最初から順風満帆な人生を送っていた訳ではなく、正室所生でありながらも五男であった義元は、当然跡目に付ける順位にはいませんでした。

 

しかし、家督を継いでいた兄氏輝並びにその後継者と目されていたもう一人の兄彦五郎の死去に伴い突如として家督相続の場に躍り出るのでした。

 

今回は、そんな『今川義元の生涯』について簡単にわかりやすく解説していきます。

 

さあ、そんな今川義元は、果たしてどのような人生なのでしょう?早速見て行きましょう!

 

今川義元の生涯

(愛知県の桶狭間古戦場伝説地内にある今川義元の墓 出典:Wikipedia

 

では、今川義元はどのような経歴の持ち主なのでしょうか?

 

冒頭でもお話のとおり、今川義元は順風満帆な人生を送っていた訳ではなく、波乱万丈人生を送っていました。

 

現在、判明している範囲で今川義元の経歴をご紹介します。

 

 

今川義元の生涯年表

 

  • 1519年 誕生
  • 1523年 4歳で出家する
  • 1536年 花槍の乱が勃発する、兄氏輝並びに彦五郎が死去した為の身内同士の争い。
  • 1537年 甲駿同盟により武田と同盟を組むも、盟友の北条を怒らせ第一次河東一乱勃発
  • 1542年 第一次小豆坂の戦いで信長の父織田信秀と敵対する。
  • 1545年 第二次河東一乱が勃発し、上杉憲政と同盟を結ぶ。
  • 1548年 第二次小豆板の戦いで織田信秀が再び進攻して来るが今度は、大勝する。
  • 1554年 甲相駿三国同盟を結び嫡男氏真は、北条家の姫早川殿を迎える。
  • 1558年 氏真に家督を継がせ隠居する。
  • 1560年 桶狭間の戦いで信長に討たれ首を取られる。

 

僅か4歳にして出家し、ある意味戦国のドタバタ劇から無縁の環境で育っていましたが、相次ぐ兄達の死去に伴い立場は、急転します。

 

結局スムーズに家督相続にも至らず戦を交える事でしばらく相続した後は、敵国との同盟軍略を繰り返し、領土を拡大して行くのでした。

 

しかし、海道一の弓取りと恐れられながら、最後は桶狭間の戦いで首を取られると言う不穏な終わりを迎えました。

 

そんな今川義元とは、果たしてどのような人物だったのでしょうか?ここからはさらに詳しく深堀していきます!

 

今川義元の人物像に迫る!

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(太平記英勇伝三に描かれる今川義元 出典:Wikipedia)

 

大名である今川氏親の息子として、正室「寿桂尼」のもと誕生しますが、五男である義元は、当初から跡目に就く予定はなく、わずか四歳にして仏門に入りました。

 

しかし、家督を継いだ兄氏輝の死去。そして、その後継者であった彦五郎が突然死すると、しばらく義元の番となるかと思いきや、四男の泉奘との家督争いが勃発。

 

結果的に勝利し家督を継ぐ運びとなりました。

 

家督継承後も当時は、下克上の戦国の世隣国には北条や武田織田が構えており、同盟を結びながらも軍略を行い、着々と領土拡大に務め、海道一の弓取りとまで恐れられるようになりました。

 

①兄弟喧嘩の末家督継承!

義元誕生時には、すでに正室「寿桂尼」には長男氏輝がおり、正室の子と言えど五男である義元は、全く持って出る幕がありませんでした。

 

仏門に入り家督相続とは無縁に生きていた物の突然氏輝が死去。しかも、同日に次兄である彦五郎までもが死去してしまいす。

 

同日に死去している事から暗殺されたと言う説が有力視されていますが、真相は定かでは、ありません。

 

義元は、家督相続後、いままで盟友であった北条家を蔑ろにして武田家と同盟を結ぶなど、これまでとは方針転換をしており、今川家中でも何らかの争いがあった上での暗殺と言えるのかもしれません。

 

現に本来五男とは、言え正室の子である義元が家督に継いでも何ら異論はないかと思いきや一部家臣が反発し、側室の子である泉奘を担ぎ出した事により、戦に発展しました。

 

結果的には、義元が勝利した事により家督相続の運びとなりました。

 

②隣国との関係?

先代までの間は、武田家と敵対していた今川でしたが、武田信虎の娘定恵院を正室に迎え入れ、甲駿同盟を結びます。

 

しかし、この婚姻に激怒したのが北条家で、これにより領土を攻められる事となり、今までの同盟関係を無にする事となりました。

 

その上、勢力を伸ばしつつあった織田信秀の侵略に合うほか、帰順して来た松平家から嫡男竹千代後の徳川家康を人質に迎える手筈となっていたにも関わらず、戸田康光の裏切りに合い、あろう事か人質家康を織田に奪われる羽目となりました。

 

その後は、戦場で捕らえた信秀の長男織田信広を生け捕りとした事で家康と人質交換を行い、それを足掛かりに三河への勢力拡大に走ります。

 

その後は、一旦は敵対してしまった北条を交え、武田と共に甲相駿三国同盟を結び各国の嫡男と娘が結婚する事により、より強固な物としました。

 

③桶狭間へと突き進む!

(尾州桶狭間合戦 出典:Wikipedia)

 

織田家でも信秀が死去し息子である織田信長の代となり、よりいっそう今川との敵対関係となっていきます。

 

(織田信長 出典:Wikipedia)

 

桶狭間で対峙する事になるも織田の軍勢は3000とも言われ、それに対し今川の軍勢は45000ともされ、人数面でも圧倒的有利でした。

 

そして、信長もまだ戦国武将としてしばらく波に出た程度で、義元からすれば経験の浅い若僧であったと言えます。

 

当時の下馬評から見ても義元が完全有利であり、まさか今川が大敗するとは思っていなかったでしょう。

 

織田の大雨の中の奇襲作戦が見事当たり、大将である義元の首は、討ち取られる事となりました。

 

 

④その後の今川家…

家督は、既に息子である今川氏真に譲っていた物の氏真は、文化人としての素質には恵まれていました。

 

(今川氏真 出典:Wikipedia)

 

しかし、武将としての腕前はいまいちと言わざるを得ず、カリスマ性を持ち合わせていた義元の死去によって今川は、国力衰退を招く事となりました。

 

そもそも今川家中では、寿桂尼が公家出身と言う事もあり、多くの公家と交遊があり、領地にも多くの公家を迎え入れていた関係で義元本人も公家被れと言っていいほど、公家文化に嗜んでいました。

 

その息子である氏真も当然公家文化に傾倒し、けまりや和歌に精通していました。

 

(『集外三十六歌仙』の今川氏真 出典:Wikipedia)

 

結果、国力衰退を食い止める事が出来なかった息子氏真は、今川家を没落させ、大名としての地位を失います。

 

妻の実家である北条家に身を寄せた後は、家康のもとで77歳まで生き延び、晩年は京や江戸で静かに和歌を嗜みながら余生を送ったと言われています。

 

このように、大名家として再興する事はありませんでしたが、氏真の子や孫は高家として幕臣の中で格の高い家として残りました。

 

ここで個人的勝手な推察!

 

兄達の相次ぐ死去により家督相続に至った義元ですが、そもそもこの事案自体謎が多く、よもや義元本人も裏で関わっていたのではないかと言う疑惑すらあるように感じます。

 

ですが、戦国大名らしく下克上の世を渡り歩き、領土拡大に務め武将としての生きざまは相当の物だと思います。

 

ただ、桶狭間の戦いでは、その歴然たる力の差から驕りたかぶってしまったのか・・・当時は無名の若僧と言ってもいい「織田信長」に討たれることとなり、戦国の下克上と言う言葉通り散って行ったと言うべきでしょうか?

 

「麒麟がくる」で今川義元を演じるのは、片岡愛之助さん!

大河ドラマ「麒麟がくる」では、主人公明智光秀が仕えた斎藤家並びに織田家と敵対する今川の将と言う重要な役所です。

 

演じるのは、歌舞伎役者の片岡愛之助さんです。

 

 

女優の藤原紀香さんと結婚され、本業は、歌舞伎役者ながら近年は、TVドラマでも活躍されており、歌舞伎ファン以外からの人気も高いです。

 

過去の大河ドラマでは、まだ記憶に新しい「真田丸」で堺雅人さん演じる主人公真田幸村の正室の父で豊臣家の恩顧の武将である大谷吉継を熱演されていました。

 

果たして「麒麟がくる」ではどんな今川義元を演じてくれるのか楽しみですね!

 

 

まとめ

まとめ

 

 今川義元は大名家に生まれるも五男である為、相続の候補からは外れていた。

 

 兄氏輝と彦五郎が相次いで死去すると言う不審死を遂げる。

 

 その後、家督相続の場に急浮上するも四男である泉奘との戦いの末に家督を相続することになる。

 

 敵対していた武田と同盟を結んだが代わりに北条と不仲になるが、再び北条を交え同盟を結び三国同盟とする。

 

 長年敵対していた織田家と桶狭間で対峙するも敗れ、首を討ち取られる。

 

 今川は、没落の一途を辿り大名から転落する。