讒謗律は(ざんぼうりつ)と読みます。そして讒謗律と同時に出された法令が新聞紙条例です。
この二つの法令はセットで覚える必要のあるものですが、それぞれの内容と違いもきちんと整理しておかないといけません。
今回は『讒謗律と新聞紙条例の違い』も踏まえて、簡単にわかりやすく解説していきます。
目次
讒謗律と新聞紙条例とは
讒謗律は1875(明治8)年6月に制定された言論統制令です。現在の刑法にある名誉棄損罪のもととなるものです。
一方、新聞紙条例は讒謗律と同じ1875年6月に制定された新聞取締法です。
当時は自由民権運動で活発となった言論活動、特に明治政府への批判や政府に不都合な意見を厳しく取り締まるのが主な目的でした。
讒謗律と新聞紙条例が制定された背景
①自由民権運動の盛り上がり
1874年、板垣退助らが民選議院設立建白書を提出したのをきっかけに、いよいよ立憲政治への期待は高まり、自由民権運動は一気に加速しました。
自由民権運動が広がりを見せた原因の一つに、民選議院設立建白書の内容が新聞に掲載されたことがあります。
この記事を掲載したのはイギリス人ブラックが東京で発行していた「日新真事誌」でした。
外国人という治外法権の立場から政府に遠慮なく、政府に不都合な記事を掲載することができたのです。
この記事によって民主主義的な政治運動が広まることは、逆に言うとそれまでの政府の方針を批判することになります。
②讒謗律が制定された背景
新しい政治を作ろうという空気の中で、既存の政府を批判するような文書や新聞記事、また誇張して政府の体制を揶揄する風刺画などが多く出され、世の中の注目を集めていました。
世の中の意見が政府批判ばかりに流されてしまっては、政府としては困ります。野放しにしておくわけにはいきません。
そこで政府は政府に対する悪い評判を広める行為に対して制限をかけ、処罰するルールを定める必要が生じました。
③新聞紙条例が制定された背景
当時のマスメディアの中心は新聞や雑誌です。
特に社会が変革を見せようとしている時は、国民は社会を知ろうとマスメディアに注目します。
そのマスメディアが政府を批判したり攻撃すること、また別の考えを世間に広めることは世論に大きな影響を与えます。
新聞に関してはすでに1868年から無許可出版を禁止し、政府の検閲を受けない民間新聞は一時的に姿を消していました。
当初は佐幕派の新聞を弾圧することが主な目的でした。
許可制ではあるものの新聞の刊行自体は、政府は奨励していました。しかし征韓論をめぐって西郷隆盛らが下野したことで世論の意見が分かれます。
この世論をけん引したものの中に新聞や雑誌の記事が大きな力を持っていました。
それを鎮圧するために1873年新聞紙発行条目を公布します。
さらに民権論が起こると新聞・雑誌による反政府的ともいえる言論活動は一層活発化しました。
そこで新聞記者へのこれまで以上に厳しい刑罰を定めた法令を出す必要が生じました。
讒謗律と新聞紙条例の内容
①讒謗律の内容
讒謗という言葉は「讒毀(ざんき)」と「誹謗(ひぼう)」の二つの意味から成る言葉です。
讒毀と誹謗の意味
✔ 「讒毀」…事実であるなしに関わらず他人の栄誉を害すること
✔ 「誹謗」…他人の悪い評判を広く知らせること
これらを著作文書や図絵などを展示したり発売したりして人々に見せる行為や、内容が分かるように示す行為をした人を罰するのが讒謗律の内容です。
刑罰に関しては禁獄・罰金の規定が讒謗の対象(天皇、皇族、官吏、その他一般私人)によってそれぞれ異なりました。
なお一般私人に対する讒謗罪は比較的刑罰が軽いものとなっていました。この讒謗律によって、官吏すなわち政府の人間を批判した人は厳しく罰せられることとなりました。
ポイントは他人の不名誉な行為が事実かどうかというのは処罰に関係ないということです。
仮に本当に批判されても仕方ないようなことをしている人がいて、その人を批判したとしても政府がそれを讒謗だと判断すれば、批判した人が処罰されてしまうのです。
②新聞紙条例の内容
新聞紙条例は新聞に限らず雑誌もその管理対象とされました。
公的機関の許可なしでは新聞や雑誌の発行ができないのはもちろん、国家転覆や法律で犯罪とされる行為を擁護するような記事を書く者はその犯罪を犯す者と同罪だとして、罰則が厳しく定められました。
また記事には書いた人の名前と住所を明記しないといけないとされました。
記者の名前は本名でなければダメで、筆名すなわちペンネームを使って記事を書くことは禁止となりました。
さらに外国人が新聞の持ち主や編集人になることを禁止。上書や建白書を掲載するのも許可制としました。
このように新聞・雑誌の書き方を厳しく制限することによって、政府批判をしたり、批判を煽ることができなくしようという狙いがありました。
讒謗律と新聞紙条例の影響・結果
①讒謗律の影響・結果
讒謗律に基づく逮捕者は1876年までに40人にのぼりました。
東京曙新聞の編集長だった末広鉄腸は、讒謗律布告を批判する投書を新聞に掲載したことで、2か月の禁固刑に処されました。
しかし讒謗律が定めた「讒謗」のラインはハッキリとしていませんでした。
特にこの頃さかんだった集会や演説の取り締まりに対しては明確な規定がなかったため、これらを取り締まる際に讒謗律を拡大解釈して適用していました。
それでは不十分ということで、1880年に集会条例が制定されます。そして82年旧刑法が施行されることによって讒謗律は廃止となりました。
②新聞紙条例の影響・結果
新聞紙条例の影響で一時、逮捕投獄される新聞記者が続出しました。
さらに1883年4月の改正で発行の際には保証金を納付しなければならないなど制限を強化すると、改正から1ヶ月以内に47紙も廃刊して、前年に355紙もあったものがこの年の年末には199紙にまで激減してしまいました。
そのため新聞紙条例は「新聞撲滅法」などと言われました。
その後数回の改正を経て、1909年の新聞紙法に継承される形で新聞紙条例は廃止となりました。
「讒(ざん)」の語呂合わせ
讒謗律の「讒」という字はおそらく日本史の教科書に出てくる中で最も画数の多い漢字です。
記述で答えさせる問題は入試にはあまり出ませんが、できれば書けるようにしておくとよいでしょう。
「讒」の字の覚え方には語呂があります。
「言+クロヒヒ免、」(ごんべん+クロヒヒめんてん)
まとめ
・讒謗律と新聞紙条例は1875年に制定された法令。
・讒謗律は栄誉を害したり悪い評判を広める行為を罰する法令のこと。
・新聞紙条例は新聞や雑誌の政府批判を厳しく取り締まる法令のこと。
・いずれも自由民権運動で活発となった言論活動を抑えることが目的。
・これらによって多くの新聞・雑誌記者が逮捕された。
・「讒」の字の書き方は「言+クロヒヒ免、」(ごんべん+クロヒヒめんてん)の語呂で覚える。