【明智光秀の生涯とは】簡単にわかりやすく解説!!彼の人物像や経歴など【麒麟がくる】

 

令和元年となった2019年も後僅かとなり、2020年の大河ドラマには、戦国武将「明智光秀(あけちみつひで)」が選ばれました。

 

 

明智光秀と言えば大変謎多き人物ながら、近世のイメージでは、謀反人ないしは裏切り者と言ったイメージで決して良きイメージのある武将ではありません。

 

何故かと言えば、やはり本能寺の変で突如として主君織田信長を自害に追い込んだからに他ならないでしょう。

 

一体どのような生涯を送った人物なのでしょうか?

 

今回は、明智光秀の壮絶な生涯を簡単にわかりやすく解説していきます!

 

それでは、早速見て行きましょう!

 

明智光秀の生涯

(明智藪:明智光秀が絶命したとされる場所)

 

実は、明智光秀は出生の時点で謎が多く、はっきりとした父親・誕生年は分からず、明智家の生まれと言う事が判明しているのみです。

 

また、主君も度々変わっており、どういう経緯で信長の元に仕官したのかは不明ながら、信長の正室濃姫とは従兄弟同士であったと考えられています。

 

中途採用の身ながら織田家中の幹部に登り詰めており、紆余曲折はあれどそれなりに出世していたと考えられます。

 

それにも関わらず最後は、本能寺の変で信長を裏切っており、謎多き人物です。

 

 

明智光秀の生涯年表

 

  • 誕生年不詳 
  • 1556年 長良川の戦いで負けた斎藤道三方であった為城を攻められる
  • 1556年以降? 朝倉義景に仕える
  • 1566年頃  足利義昭に仕える
  • 1566年頃  織田信長に仕える 
  • 1570年 金ヶ崎の戦いで殿を務める
  • 1571年 比叡山焼き討ち事件で実行部隊として動
  • 1573年 今堅田城の戦い、この時には、かつての主君足利義昭と正式に決別する
  • 1575年 丹波国の攻略を任せられる
  • 1576年 天王寺の戦いで危うく打ち取れそうになる
  • 1579年 丹波国平定により石高34万石となる
  • 1582年 本能寺の変で信長を裏切る。山崎の戦いで豊臣秀吉に討たれる

 

明智光秀は、誕生年が分からない事から主君信長よりも年上とも年下とも言われており、詳しい出自は分かっていません。

 

また、前半期は主君が定まらない時期もありながらも信長に最終的には仕え、実績を残す事で出世し、それなりに順風満帆な人生を送っていたのではないでしょうか?

 

果たして一体どのような人物なのか詳しく見て行きましょう!

 

明智光秀の人物像に迫る!

(明智光秀 出典:Wikipedia)

 

明智光秀は、誕生年誕生地父親もはっきりとせず、明智家の生まれとされていますが、出自がはっきりしない事から、或いは農民の出なのではないかと言う説すらあります。

 

ただ通説では、斎藤道三の正室小見の方が叔母とされており、その子である濃姫とは従兄弟同士であり、幼少期から面識があったのではないかと考えられています。

 

信長に仕官後もそれなりに信頼されたのは実績を残してこそでしょうが、信長の正室濃姫の口添えがあったと推測されます。

 

波乱万丈な青年期

光秀は、元は美濃の斎藤家に仕えていたと考えられるも、斎藤家中で父斎藤道三と息子義龍との親子による戦が勃発したことで明智家は道三方に付いていました。

 

 

しかし、結果的に道三は討たれる事となり所領を失ってしまいます。その後、朝倉義景を頼り朝倉家で仕えるようになるも、朝倉家中ではなかなか活躍の機会を得られず極貧であったと言われています。

 

その後は足利義昭の元に転職しますが、実権を持たない義昭一人では何もする事が出来ず、なかなかこちらでも活躍の機会は得られません。

 

最終的に経緯は、不明なれど織田信長に仕官する事となります。

 

(織田信長 出典:Wikipedia)

 

信長の正室は斎藤家の姫で従姉妹の濃姫だったので、そのつてを頼ったとも言われています。

 

 

元々の主家斎藤家のお家騒動に始まり、その後は暫く不遇な思いをしますが、信長に仕え始め運気が回って来たと言えましょう。

 

織田家中で出世!

 

言わば中途採用の身ながら、光秀は一国の攻略や城攻めや殿などを果たしており、信長に信頼されていたからこそ、その大役を任されたのでしょう。

 

その信頼が何処から来ていたのかは不明ですが、やはり正室である濃姫の口添えがあったと考えて然るべきかと思います。

 

力がある者であれば身分を気にしないと言う信長の方針もその手助けとなったのかもしれません。

 

丹波国を平定した際には、信長からその仕事ぶりを称賛され、丹波一国を任された他南山城を渡されました。

 

それにより石高は、34万石となり一時の極貧生活とは打って変わって大出世を遂げました。

 

本能寺の変と突き進む!

(本能寺の変 出典:Wikipedia)

 

着実に織田家中で出世して行った光秀ですが、なぜ本能寺の変を起こしたのかはわかっていません。

 

ただ中途採用の光秀が出世する事を少なからず、妬ましく思っている家臣が居たのも事実のようで、決して家中で光秀の立場は平穏な物ではありませんでした。

 

元々光秀は、毛利攻めに苦戦している同僚豊臣秀吉の応援の為に出陣しましたが、向かわず信長の宿泊先本能寺を襲いました。

 

この時、1万の軍勢の明智側に対し、信長は手勢100程だったため、流石の信長もなすすべなく本能寺で自害に追い込まれました。

 

近隣に宿泊していた信長の息子信忠も同じく自害に追い込まれ、それだけ本能寺の変が予想外の出来事であったと言えます。

 

ここで一時的に天下人に登り詰めた光秀でしたが、当時の武将として不覚なのは、一切信長の遺体が見付からなかった事で、これは最もミステリーと言えましょう。

 

一説には、信長が友人近衛前久に裏切り者の光秀に首を奪われない為、先に首を持って隠してくれと頼まれたのではないかとも言われています。

 

 

明智光秀のその後…

(西教寺にある明智光秀とその一族の墓 出典:Wikipedia)

 

信長を討ち一気にこれで天下人へのスターダムを登り詰めたかと思うと光秀の天下は、僅か13日で終わる事となるのでした。

 

早期に戻って来れる訳が無いと踏んでいた豊臣秀吉があっさり中国大返しで舞い戻って来ると、山崎の戦いで光秀は敗走。

 

 

その後、明智光秀は自害したとも、落武者狩りによって殺害されたとも言われており、最期に関しても謎が多く残っています。少なくとも戦場で首を取られた訳ではありませんでした。

 

それもあってか光秀生存説も存在しており、後に徳川家康が贔屓にした僧侶の天海が明智光秀だったのではないかと言われています。

 

(僧侶「天海」 出典:Wikipedia)

 

ただ、山崎の戦いの際に諸侯に援助を頼むも断られるなど、光秀の天下が長く続く物ではないと世間は思っていたと考えると大分大胆な事をしたと言って良いでしょう。

 

謀反人の一族となった明智家の者は、最後居城の坂本城と共に皆自害し、家臣達も皆磔とされました。

 

ここで個人的勝手な推察!

 

光秀が本能寺の変を起こした理由は、未だ定かではありません。

 

ただ、ここで信長を討っても天下人になり得ないと光秀は、分かっていたと思います。

 

そもそも大義名分も得ず主君信長を討てばどのような扱いになるかは、分かっていた筈ですし、その上僅かな手勢とは言え、信長にこの動きを察知されれば今迄築き上げた物を全て失います。

 

やはり、この本能寺の変には光秀と何者かによる密約があったのではないでしょうか?

 

麒麟がくるで明智光秀は「長谷川博己」さんが演じる!

作品が発表されれば気になるのは、主演が誰かと言う事ですが、主演は、俳優の長谷川博己さんに決定しました。

 

 

長谷川博己さんと言えば、同じくNHKで放送されたドラマ『セカンドバージン』で鈴木京香さんの相手役を務め、一気に有名になりましたね。

 

近年では、朝ドラ『まんぷく』では、主人公安藤サクラさんの夫役を務めていました!

 

過去の大河ドラマでは、『八重の桜』で主人公綾瀬はるかさんの最初の夫を熱演されています。

 

コミカルな役からシリアスな役迄幅広くこなせ、脇役も主演もこなせる俳優さんですね。

 

果たしてどんな明智光秀を演じてくれるのか楽しみですね!

 

まとめ

まとめ

 

 明智光秀は、斎藤家のお家騒動に巻き込まれ無職に転落する。

 

 朝倉家足利家と転職して活躍を期待するも機会を得られず。

 

 従姉妹を頼り織田家に転職して活躍する。

 

 特に金ヶ崎の戦いで殿を務め信長は、無事帰還を果たす。

 

 丹波国の平定を完了するとその褒美に丹波一石を任され32万石の大名となる。

 

 秀吉救済の為、出陣するも何故か本能寺を襲撃する。

 

 信長信忠親子は、応戦の末自害する。

 

 山崎の戦いで秀吉に敗れ僅か13日で天下は、終わる。