戦国時代、勢力を拡大していった織田信長と、それに対抗した朝倉氏・浅井氏の間で起きた姉川の戦い。

 

この戦いは一体なにがきっかけで起きたのでしょうか?

 

今回はそんな『姉川の戦い』について簡単にわかりやすく解説していきます。

 

姉川の戦いとは

(現在の姉川の戦いの戦場"滋賀県" 出典:Wikipedia

 

 

姉川の戦いとは、1570年(元亀元)730日、現在の滋賀県である近江の姉川で織田信長&徳川家康の連合軍と朝倉氏・浅井氏の連合軍の間で起きた合戦のことをと言います。

 

この合戦は土地の名前をとって「野村合戦」または「三田村合戦」とも呼ばれています。

 

姉川の戦いが起きるまで『きっかけ&背景』

(織田信長 出典:Wikipedia)

 

 

姉川の戦いで刀を交えることになった織田氏と朝倉・浅井氏でしたが、浅井氏の浅井長政については織田信長と縁が深かったのです。

 

①織田氏と朝倉氏

尾張の戦国大名、織田信長は駿河の今川義元を桶狭間の戦いで討ち取り、美濃の戦国大名、斎藤龍興から美濃国(現在の岐阜県)を奪い、京都へ勢力を広げるために近江へ進軍しました。

 

そこで信長は、北近江を治めていた浅井長政と、信長の妹・お市の方を結婚させました。

 

(お市の方 出典:Wikipedia)

 

 

お市の方と長政が結婚すれば、信長は長政の義理の兄になるということです。

 

長政との親戚関係を結び、今後の天下統一へ向けて助けてもらおうと考えたのです。

 

②織田信長VS朝倉義景

(朝倉義景 出典:Wikipedia)

 

 

長政の協力もあり、信長は南近江を治めていた六角義賢父子を観音寺城の戦いで破ります。

 

このとき、室町幕府第13代将軍の足利義輝は、永禄の変で命を落としてしまいました。

 

すでに第14代将軍は決まっていましたが、信長は新しい将軍の座に義輝の弟である足利義昭を第15代将軍として担ぐことで上洛を果たしました。

 

新しい将軍が決まったとなれば、各大名は挨拶に向かわなければいけません。

 

しかし、越前(現在の福井県)を治めていた朝倉義景は、信長による上洛の要求を断り続けます。

 

これに怒った信長は、1570年(元亀元)4月、朝倉氏がいる越前へ攻め入りました。

 

③金ヶ崎の戦い

越前に攻め入った信長は、家臣に徳川家康・明智光秀・木下秀吉などを連れて、最初こそ合戦は優勢でした。

 

しかし、そこで信長の義理の弟であるはずの浅井長政が信長を裏切り、朝倉氏側に味方したという知らせが入ります。信長も最初はその情報を信じられませんでした。

 

(浅井長政 出典:Wikipedia)

 

 

しかし、信長は次々に浅井氏の動きの知らせを受け、長政に本当に裏切られ、自分が朝倉氏と浅井氏の軍に挟み撃ちにされていることがわかったのです。

 

朝倉氏と浅井氏は古い同盟関係にあり、長政は信長との親戚関係よりも、朝倉氏との古い絆を選んだのです。

 

長政の裏切りにより、信長は撤退するしかなくなり、攻略した朝倉氏の金ヶ崎城で、京都への撤退を決めました。この戦いを「金ヶ崎の戦い」といいます。

 

姉川の戦いの開戦と結果

 

 

金ヶ崎の戦いでは、織田信長は義理の弟である浅井長政に裏切られてしまいました。

 

それに腹を立てた信長は、長政を討つために北近江に目指します。

 

そこで、姉川の戦いは始まりました。

 

①優勢の朝倉軍

信長側には徳川家康の援軍も加わり、およそ3万4000の軍勢になりました。対して浅井氏・朝倉氏側はおよそ2万1000の軍勢。

 

信長の軍と浅井・朝倉の軍は姉川という川を挟んで対峙します。

 

徳川軍に対峙した朝倉軍が攻めかかったことで、合戦は始まりました。

 

朝倉軍は信長側の酒井忠次らの軍を圧倒し、つづいて信長側の先鋒に置かれていた坂井政尚の軍も壊滅してしまいました。

 

この流れに乗ろうと、浅井軍も信長の本陣に進むべく、次々と信長の軍を蹴散らしていきました。

 

②家康の援軍

(徳川家康 出典:Wikipedia)

 

 

浅井氏・朝倉氏の軍が優勢に見えましたが、信長と同盟関係にあった徳川家康の援軍によって、朝倉軍は不意をつかれ、戦局は一変してしまいます。

 

朝倉軍が敗れてしまったことは、浅井軍にも伝わり、信長がいる本陣まであと一歩…というところで、浅井軍も信長の軍の攻撃により戦いに敗れ、自らの城である小谷城へ逃げ走ることになりました。

 

姉川の戦いに勝利した信長は、拠点としていた横山城を包囲しました。

 

また、姉川の戦いは、浅井氏と朝倉氏の滅亡のきっかけだったともいわれています。

 

姉川の戦いのその後

 

 

姉川の戦いに敗れた朝倉氏・浅井氏、そして戦いに勝った織田信長は、その後どうなったのでしょうか。

 

①信長包囲網

次第に弱体化していった浅井・朝倉の両氏は反織田信長の勢力「信長包囲網」として数えられることになります。

 

対して信長は、三好三人衆を相手に「野田城・福島城の戦い(第一次石山合戦)」を繰り広げました。

 

しかし、この戦いの最中、石山本願寺が三好三人衆の味方につきます。

 

戦いは激しくなるなかで、信長の家臣、森可成と信長の弟、織田信治が、浅井氏・朝倉氏の軍によって討ち取られてしまいました。

 

信長は浅井氏・朝倉氏が、自分が支配する京都に侵入してくるのを恐れて、三好三人衆との戦いを取りやめ、撤退しました。

 

 

②比叡山焼き討ち

(焼き討ちの様子 出典:Wikipedia

 

 

信長の軍との戦いで浅井氏・朝倉氏軍の生き延びた兵たちは、現在の滋賀県大津市にある比叡山延暦寺に逃げ込みます。

 

「寺社勢力」ともよばれていた延暦寺は、寺でありながら武力も持っていました。

 

延暦寺の僧侶たちは逃げ延びた浅井・朝倉の兵をかくまうことにしましたが、これを知った信長は、浅井氏・朝倉氏たちを放っておくはずがありません。

 

信長は延暦寺側に「織田軍に味方するなら横領した延暦寺の領地は返す。それができないなら中立を保ってほしい。浅井・朝倉側につくなら比叡山を焼き討ちにする」という内容の通告を数度しました。

 

しかし、延暦寺がこれに答えることはありませんでした。

 

このとき季節は冬で北陸に降る大雪によって、自分たちの国と連絡する手段がなくなる心配をした朝倉氏と重臣を失い、戦いが長引くことを心配した信長は、ついに和睦の講話を結ぶことにしました。

 

しかし、元々信長と延暦寺には領地に関する確執があり、それに浅井氏・朝倉氏軍のことが重なり、信長は比叡山に攻め入りました。

 

1571年(元亀2)9月12日、比叡山を焼き討ちにしたこの事件を「比叡山焼き討ち」といいます。

 

 

まとめ

・1570年(元亀元)7月、近江の姉川で織田・徳川連合軍と朝倉・浅井連合軍の間で起きた合戦のことを「姉川の戦い」という。

・北近江を治めていた浅井長政と、信長の妹・お市の方が結婚し、信長と長政は親戚関係を結んだ。

・信長は越前を治めていた朝倉義景に上洛の要求をしたが、義景は断り続けた。

・信長と朝倉氏の「金ヶ崎の戦い」で、浅井長政は信長を裏切り、朝倉氏側についた。

・「姉川の戦い」で、朝倉・浅井軍が最初は優勢だったが、織田側の徳川家康によって形成は逆転された。

・浅井・朝倉の両氏は反織田信長の勢力「信長包囲網」として数えられた。

・浅井・朝倉軍の味方をした比叡山延暦寺は、信長によって焼き討ちにされた。




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