2020年NHK大河ドラマは「麒麟がくる」です。

 

大河ドラマ「麒麟がくる」は、若き日の明智光秀を中心とした大河ドラマとなっています。

 

 

今回のテーマの斎藤道三は、「明智家」の存亡に関わる重要な人物ですし、織田信長とも関りが深い人物になっています。

 

そんな斎藤道三は一体どのような人物だったのでしょうか?

 

今回はその人物像や経歴、そして織田信長との関係や彼の最期についても詳しくご紹介します。

 

斎藤道三の生涯

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(斎藤道三 出典:Wikipedia)

 

では、斎藤道三はどのような経歴の持ち主なのでしょうか?

 

冒頭でもお話したとおり、斎藤道三は「明智光秀」にとっても「織田信長」にとっても縁深い人物です。

 

現在、判明している範囲で斎藤道三の経歴をご紹介します。

 

 

斎藤道三の生涯年表

 

  • 1494年 生まれる
  • 1526年 土岐頼芸の愛妾である深芳野を下賜され側室にする
  • 1527年 豊太郎(のちの斎藤義龍)が生まれる
  • 1532年 明智三継の娘・小見の方を正室に迎える
  • 1533年 長井長弘を殺し、長井新九郎規秀と名乗る
  • 1535年 帰蝶(濃姫)が生まれる
  • 1538年 斎藤利良が病死し、斎藤家の家督を継ぐ。斎藤新九郎利政と名乗る
  • 1541年 土岐頼芸の弟の土岐頼満を毒殺
  • 1542年 土岐頼芸とその息子を尾張に追放し、美濃の戦国大名になる
  • 1547年 加納口の戦いにて織田軍を壊滅まで追い込む
  • 1548年 織田家と和睦し、娘の帰蝶を信長に嫁がせる
  • 1552年 土岐頼芸を再び追放し、美濃を平定
  • 1554年 息子の義龍に家督を譲り、斎藤道三と名乗り鷺山城に隠居する
  • 1556年 長良川の戦いで義龍と対峙し、討死する

 

斎藤道三は、美濃のマムシと恐れられながらも、その最期は息子である斎藤義龍に殺されてしまうという壮絶な最期でした。

 

それでは、斎藤道三の人生はどのようなことがあったのか?詳しくひも解いていきましょう。

 

斎藤道三の壮絶な人生

(岐阜市になる斎藤道三公墳 出典:Wikipedia

 

1494年に生まれたとされる斎藤道三は、京都妙覚寺で「法蓮坊」として修業に励んでいましたが、還俗して油売りになりました。

 

この頃の名は、山崎屋の松波庄五郎といいます。ですから、元々は武士の出ではありませんでした。

 

有名な話で「漏斗(ろうと)を使わずに、一文銭の穴から壺に油を注いで見せましょう。もし、油がこぼれたならば代金は頂きません。」というパフォーマンスをしながら油を売っていたという逸話が残っています。

 

このことからも斎藤道三は頭が切れ、口達者であったことが伺えます。

 

①美濃のマムシと呼ばれるワケ

 

斎藤道三は、油売りから戦国大名に1代で成り上がったことで有名な武将です。

 

しかし、現在では父の代から下克上を目論んでおり、2代で下克上を成し遂げた説が有力になっています。

 

そして、大河ドラマ「麒麟がくる」のNHKの公式サイトの出演者の欄にも「親子2代で美濃の国盗りを目指す戦国下克上の代名詞的存在」と書かれています。

 

ですから、「麒麟がくる」の中では、親子2代で国盗りをしたという説で通していることになります。

 

この国盗りの経緯についてひとつずつひも解いていきましょう。

 

油売りをしていた道三でしたが、この頃の美濃の守護大名土岐氏の重臣である長井氏や斎藤氏と縁ができます。

 

長井氏の家臣である西村家に婿入りし、油売りから武士へと成り上がることに成功しました。このとき、西村勘九郎と名乗ります。

 

長井長弘は、道三の才能をとても気に入り、この時の守護大名であった土岐頼武と弟の頼芸に目通りをさせています。

 

(土岐頼武 出典:Wikipedia)

 

そして、頼芸の信頼を得ていった道三は、土岐家の跡目争いに頼芸が有利に働くように動き頼武を追い出すことに成功すると主君である頼芸が美濃の守護大名となりました。

 

そして、同時に頼芸の信頼を得ていたかつての恩人であるはずの長井長弘を殺害し、1533年に家督を継ぎ、長井新九郎規秀という名に改めます。

 

その後、1538年に守護大名の斎藤利隆が亡くなると、道三が家督を継ぎ、今度は斎藤利政と名乗りました。

 

そして、さらに1541年には土岐頼芸の弟の頼満を毒殺します。そこで道三と頼芸の対立が表立つことになります。そして、1542年に頼芸とその息子を尾張へ追放。

 

このように道三は数々の恩人や主君までも倒して、油売りから武士へ武士から守護大名へと成り上がっていったというわけです。

 

道三の天才的な頭の切れ口と政治的な手腕は目を見張るものがありますね。

 

②織田信長との関係

 (織田信長 出典:Wikipedia)

 

斎藤道三と織田信長の関係を語るのに外せない人物といえば、斎藤道三の娘である帰蝶(濃姫)の存在です。

 

 

1542年に土岐頼芸を美濃から追い出し美濃の守護大名となった道三でしたが、頼芸の方に従うものが多く、美濃の地は荒れていたといいます。

 

そこへ、頼芸の肩をもって織田信秀が攻めてきました。

 

織田家の方も中々苦戦を強いられていたので、織田家家臣の平手政秀が和睦を申し入れてきて、それを道三も承諾しました。

 

それと共に1543年に帰蝶は織田信長に嫁ぎました。ですから、道三は信長の義父ということになります。

 

また、信長に嫁いだ帰蝶の母は「小見の方」と呼ばれる光秀にとっては叔母という存在で帰蝶は光秀とは「従兄弟」関係にあります。

 

③父VS息子の壮絶な最期

(斎藤道三 出典:Wikipedia)

 

下克上を果たした道三でしたが、最期は息子の斎藤義龍と1556年に長良川の戦いで合戦し、その命を落とすことになります。

 

 

長良川の戦いの前年には、義龍が弟たちを自分の城である稲葉山城に呼び出して、泥酔したところを殺害したといいます。

 

それを知った道三は別の城へ移り、開戦しましたが、道三軍2,700対義龍軍17,500と圧倒的な兵力の差に負けてしまいました。

 

この戦を生んだ理由は、義龍を産んだ深芳野は、元々は主君であった土岐頼芸の愛妾で頼芸から下賜されて道三は深芳野を側室に迎えていることにあります。

 

 

義龍は深芳野が道三の側室になって間もなくして生まれました。

 

ですから、周囲からは「頼芸の子どもではないか?」といわれていたようで、本人もそう感じていたかもしれません。

 

それを裏づけるように道三は、長男である義龍以外の子どもたちをたいそう可愛がったそうですが、義龍にだけは大変厳しく接していたようです。

 

この道三と義龍の確執が長良川の戦いの悲劇を生んだといわれています。

 

そんな道三は、死の直前でも「信長に美濃を譲る」と言い残していました。

 

大河ドラマ「麒麟がくる」で斎藤道三は本木雅弘さんが演じる!

大河ドラマ「麒麟がくる」で斎藤道三を演じるのは、俳優の本木雅弘さんです。

 

 

本木雅弘さんは、1965年12月21日生まれで1981年にTVドラマ「2年B組仙八先生」にて俳優デビューしました。

 

本木雅弘さんにはもう一つの顔があり、あのシブがき隊で「モックン」という愛称で有名なアイドルです。現在はジャニーズ事務所から個人事務所「メンズアート」に移籍しています。

 

大河ドラマでは1991年の「太平記」、1998年の「徳川慶喜」で出演しています。

 

最近のテレビ出演は2012年のTBSドラマ「運命の人」が最後ですから、久しぶりのテレビ出演になりますね。

 

斎藤道三はかなり重要な役でしょうから、本木雅弘さんの演技が楽しみです。

 

 

まとめ

まとめ

 

 斎藤道三は僧侶から商売上手な油売りになった。

 

 斎藤道三は油売りから武士に出世し、のちに主君となる土岐頼芸の信頼を得ていく。

 

 土岐頼芸の愛妾・深芳野を下賜され、側室にする。その後、光秀の叔母にあたる小見の方を正室にする。

 

 深芳野とは「義龍」が、小見の方とは「帰蝶」が生まれる。

 

 土岐頼芸が守護大名になるように画策する。

 

 主君の土岐頼芸を裏切るなど数々の下克上を果たし、道三が美濃の守護大名になる。

 

 不仲だった息子の義龍に家督を譲り、斎藤道三と名乗り鷺山城に隠居する。

 

 最期は息子の義龍と合戦し、長良川の戦いに敗れて討ち死にする。

 

 息子の義龍ではなく、信長に「美濃を譲る」と言い残していた。