キリスト教は戦国時代に日本に入ってきた宗教です。

 

元々仏教徒が多かった日本でしたが、ある一部の大名はこのキリスト教を信仰していました。

 

今回はそんなキリスト教を信仰していた大名『キリシタン大名』についてわかりやすく解説していきます。

 

キリシタン大名とは

(大名に布教を行ったフランシスコ・ザビエル)

 

 

キリシタン大名とは戦国大名の中でも特にキリスト教を信仰していた大名のことです。

 

キリシタン大名は南蛮貿易を盛んにしていきましたが、奴隷貿易を推進していたという負の側面がありそれが原因の一つとなり出された命令である秀吉のバテレン追放令以降は肩身の狭い状態になってしまいました。

 

キリシタン大名の特徴

 

 

キリシタン大名の特徴はその人が治めている領地が九州や堺など外国人がよく来る所に重点的にいるということです。

 

まぁ、キリスト教自体が外国人の宗教なんで外国人に触れ合えなかったらキリシタンなんてなりませんが、実は戦国大名たちはそれよりももっと大事なことがありました。

 

この頃、ポルトガルやスペインなどのヨーロッパの国々が来るようになり、日本に鉄砲やヨーロッパ製の商品などが輸入され始めていきました。

 

この貿易のことを南蛮貿易といいますが、戦国大名は特に鉄砲に注目します。

 

鉄砲は1543年に日本に伝来し、かなり遠くから撃っても敵に当たるという優れものでしたが、この頃はヨーロッパの人から買っていたため値段が高すぎる。

 

そのため、戦国大名はなるべくヨーロッパの人から安く買えるようにキリシタンになるという人が出てきます。のちに紹介する大友宗麟はそんな戦国大名の一人でした。

 

主なキリシタン大名の紹介

(大友 宗麟 出典:Wikipedia

①大友宗麟 北九州を手に入れた男

大友宗麟は豊後の大名であった大友家第21代目の当主です。

 

この大友宗麟。前半生はとんでもなく有能な人でして、最盛期には九州地方の北半分を完全に支配する九州で最大級の勢力を誇るまでに押し上げた人でした。

 

そんな宗麟がキリスト教に出会ったのは1551年の頃。当主になって2年目にあのフランシスコ・ザビエルに面会した時でした。

 

宗麟はこのキリスト教を使えばそれとセットでやってきていた南蛮貿易が上手くいくと考え、キリスト教の布教活動を許します。

 

これによって大友家には数々の鉄砲が輸入され、大友家の軍事力が強化されていきました。

 

しかし、キリスト教を認めるというのはメリットがありますが、それに伴って数々のデメリットがあります。その中でも一番の問題が仏教とキリスト教との宗教対立でした。

 

 

この宗教対立によって大友家の家臣の間でゴタゴタが起き始め、遂には家来にしていた大名たちが続々と裏切ってしまいます。

 

そんな大友家にとどめを刺したのが『今山の戦い』と『耳川の戦い』でした。

 

今山の戦いは大友家と龍造寺家という肥前の大名との戦いですが、この戦いに負けてしまい肥前の領地を失ってしまいます。耳川の戦いは宗麟が日向(宮崎県)に侵攻した時に島津家に大敗した戦いです。これによって多くの家臣を失ってしまい、大友家は島津家の猛烈な侵攻を受け、最終的には豊後一国をなんとか維持できてるかどうかという滅亡寸前までに追いやられてしまいます。

 

しかし、運のいいことに宗麟はこの土壇場でこの頃関白になった秀吉に従属。九州征伐を取り付けることに成功します。

 

しかし、宗麟は九州征伐の途中で病死。大友家は関ヶ原の戦いで西軍についてしまい改易となってしまいました。

 

②小西行長 商人から大名に

(小西 行長 出典:Wikipedia

 

 

小西行長は堺の商人であった小西隆佐の息子として生まれます。

 

行長が生まれた小西家は当時堺の中では一二を争うほどの有力な商人で、当時国際都市であった堺を行き来していた外国人と触れ合う機会が多かったのです。そのため行長は宗麟と同じく、キリスト教を利用して南蛮貿易を推進しようとしていました。

 

行長は岡山の商人として岡山に行きましたが、そこの領主であった宇喜多家に武士として採用され家臣となります。

 

その後秀吉の家臣となり、豊臣家の財務の担当を務めるようになります。

 

その後1584年に高山右近に誘われて遂にキリスト教に入信。行長の領地であった小豆島にキリスト教の教会を建てていきます。

 

その後、秀吉によってバテレン追放令が出されて肩身が狭くなるものの、熊本の宇土20万石の領地を与えられ、一人前の大名となりました。

 

行長はその後朝鮮出兵の時の交渉役として活躍しますが、これが原因で豊臣家の武断派と関係が悪くなってしまいます。

 

さらにその武断派の中の中心人物であり、さらに熊本の北半分の領主であった加藤清正との関係は最悪となってしまいます。(ちなみに加藤清正はゴリゴリの仏教徒でした。)

 

その後、1600年に関ヶ原の戦いが起きると、行長は同じく財務を担当していた石田三成率いる西軍に参加しますが、皆さんご存知の通り西軍は敗北してしまいます。

 

 

万事休すの行長。切腹しようにもキリスト教は自害厳禁なのでできませんでした。結局、行長は石田三成と同じく三条河原で打ち首。52歳で亡くなりました。

 

③高山右近 マニラに追放された大名

(高山右近 出典:Wikipedia

 

 

高山右近は摂津の領主であった高山友照の息子として生まれます。

 

この高山右近はわずか10歳でキリシタンになるなど上の二人とは違い、キリスト教を利用せず、純粋にキリスト教を信仰していました。

 

右近は三好家の家臣となった後に信長の家臣として摂津を治めていましたが、1582年に本能寺の変が起こると秀吉の家臣となります。

 

その後、右近は明石6万石を与えられますが、1585年に秀吉によってバテレン追放令が発令されてしまいます。

 

右近は悩みます。このままキリスト教を信仰すれば領地は没収。最悪処刑されてしまうかもしれない。しかし、キリスト教をほいそれと簡単に信仰を捨てるわけにもいかない。

 

悩みに悩んだ右近は領地よりもキリスト教を選びました。右近はその後小西行長や前田利家に匿われながらひっそりと生活していきますが、1614年に徳川家康によってキリシタン追放令が出されると右近も国外追放を受けてしまいマニラに向かわなければいけなくなってしまいます。

 

マニラに向かった後はスペインの総督から歓迎を受けて一躍人気者になりますが、マニラの天候や気温になれずマニラに到着してからわずか40日後に亡くなってしまいます。

 

右近の死後、右近はマニラに銅像が建てられ、さらにゆかりの地である高槻市とマニラ市が友好関係を結ぶなど友好の架け橋となりました。

 

そして右近の死後400年後、ローマ教皇から福者となり、聖人の一人となりました。

 

④大村純忠 長崎の始まり

大村純忠は肥前の大名であった有馬家から養子として大村家の当主となった人です。

 

この人が治めていた土地は元々貿易が盛んなところでしたが外国人が来ることはあまりありませんでした。そんな大村家に転機が・・・。なんと1561年にそれまでの南蛮貿易の中心地の一つであった平戸でポルトガル人が殺害されるという事件が起きてしまいます。

 

 

純忠はこれはチャンスとしてみて平戸から退去したポルトガル人に対して港の貸し出しを行い南蛮貿易を盛んに行おうと計画します。

 

この計画は見事に上手くいき、大村家の領地での南蛮貿易が盛んに行われ大村家の財政は潤いまくりました。純忠はこの頃にキリスト教に改宗。領地の民衆にキリスト教の信仰を勧めました。

 

しかし、キリスト教はメリットがあればデメリットもあり、キリスト教を敵視していた人によってその港が焼き払われてしまいます。

 

これでは南蛮貿易が出来なくなってしまう。そう思った純忠はとある港を新たに貸しました。それが今の長崎です。

 

しかし、この人の信仰はあまりにも苛烈すぎたため、キリスト教を信仰していない人を奴隷として海外に売り飛ばしたりして奴隷貿易をしている側面もありました

 

キリシタン大名とバテレン追放令

(豊臣秀吉 出典:Wikipedia)

 

 

キリシタン大名の大きなターニングポイントといってもいいのが1585年に秀吉によって出されたバテレン追放令でした。

 

秀吉はキリシタン大名やキリスト教宣教師などが日本を征服用と企んでいることや日本人が奴隷として海外に売り飛ばされているなどの報告などを聴き激怒。キリスト教の禁止に踏み切りました。

 

バテレン追放令とは要するにキリスト教を禁止してキリスト教を布教していた宣教師などを国外追放するというものでした。

 

キリシタン大名はこのバテレン追放令によって無理矢理仏教徒にされてしまったり、高山右近のように領地を失わなければいけなくなってしまうなどさまざまな受難の道を歩くことになりました。

 

まとめ

・キリシタン大名はキリスト教を信仰していた大名のこと。

・キリシタン大名になった理由は南蛮貿易を推進したいと思っていた人が多い一方で高山右近のように自身の信仰でキリシタン大名になった人もいた。

・キリシタン大名はキリスト教を信仰していない人を奴隷としてうることもあった。

・キリシタン大名は1585年のバテレン追放令以降どんどん肩身がせまい思いをするようになった。




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