2020年NHK大河ドラマの「麒麟がくる」は、若き日の明智光秀が活躍します。

 

今回のテーマである足利義昭といえば、「室町幕府最後の将軍」として有名な人物です。

 


実は、足利義昭は織田信長とも明智光秀とも関り合いが強い人物なのです。

 

では、足利義昭とはどのような人物なのでしょうか?

 

今回は、その人物像や経歴、明智光秀との関係性などについてご紹介していきます。

 

足利義昭の生涯

(越前国一乗谷の足利義昭御所跡 出典:Wikipedia

 

では、足利義昭はどのような経歴の持ち主なのでしょうか?

 

冒頭でもお話のとおり、足利義昭は室町幕府最後の将軍で「第15代将軍」となります。

 

約240年続いた室町幕府でしたが、義昭の代で戦国時代の波にのまれて滅んでしまいます。

 

それでは、現在判明している範囲で足利義昭の経歴をご紹介します。

 

 

足利義昭の生涯年表

 

  • 1537年 生まれる
  • 1565年 兄・義輝が暗殺される
  • 1566年 還俗し、「足利義秋」と名乗る
  • 1568年 足利義栄が第14代将軍に就任するが、病気を患い死去
  • 1568年 元服し、名を「足利義昭」に改める
  • 1568年 室町幕府第15代将軍になる
  • 1570年~1572年 信長包囲網を築く
  • 1573年 槙島城の戦いで信長に降伏
  • 1582年 本能寺の変が起きる
  • 1585年 豊臣秀吉が関白になり、将軍に戻る
  • 1588年 将軍を辞して受戒し、昌山と名乗る
  • 1597年 死因は腫物で没する

 

流浪の生涯でしたが、義昭は61歳まで生きており、当時としては長生きでした。

 

しかし、義昭は信長に京を追われたりして諸大名を頼ったりと流浪の生活をしていたので、「貧乏将軍」といわれていました。

 

また、信長に息子を人質として渡し、自分は生き永らえたりもしていたので、武家はもちろん民衆からも冷ややかな目で見られていたと言われています。

 

それでは、足利義昭の人生はどのようなことがあったのか?詳しくひも解いていきましょう。

 

足利義昭の壮絶な人生を振り返る

(足利義昭像 出典:Wikipedia)

①足利義昭の誕生

足利義昭は、1537年に第12代将軍の足利義晴の次男として生まれました。

 

義昭は次男であったので、「家督相続者以外の子は仏門に入る」という足利家の慣例にともない興福寺一条院で僧侶になりました。

 

名を覚慶(かくけい)といいます。

 

本来でしたら、このまま僧侶で生涯を終えていたところです。

 

しかし、松永久秀らにより兄・義輝が暗殺されてしまったことで、室町幕府最後の将軍となるという数奇な運命を辿ることになりました。

 

 

義輝が暗殺されたと同時に松永久秀らに義昭も興福寺で幽閉されてしまいますが、義輝の側近らに助けられながら、逃亡することに成功します。

 

そして、義昭は将軍に就任するために上洛することを決意するのです。

 

織田信長を父と慕う義昭

(織田信長 出典:Wikipedia)

 

義昭が上洛をしようとするものの中々協力してくれる武将はいませんでした。

 

その中で、当時朝倉氏に仕えていた明智光秀が義昭の側近である細川藤考に接近し、義昭と信長の仲介をしました。

 

 

そして、無事に義昭は信長と一緒に上洛を果たします。

 

のち光秀は信長の家臣となり、義昭の公方衆となりという二人に仕えることになりました。

 

義昭は、上洛の件や他にも恩義があり信長のことを「御父」とまで尊敬したものの、信長は義昭の下につくことを嫌がり、副将軍となる話などをすべて断ったそうです。

 

信長包囲網を築く

一時期は良好な関係を築いていた義昭と信長でしたが、次第に関係が悪くなっていきます。

 

室町幕府を復興させたい義昭と天下統一したい信長との対立は避けられませんでした。

 

義昭は武田信玄をはじめ、上杉謙信、本願寺、朝倉義景、浅井長政などと同盟を結んで信長包囲網をつくり、幕府再興を試みました。

 

1573年窮地の信長は、義昭に子どもを人質として差し出し、和睦を図りましたが義昭はそれを拒絶しました。

 

しかし、あと一歩で信長を討つことができるというところで、武田信玄が死去してしまい武田軍が甲斐に退却。信長包囲網は崩壊します。

 

形勢が逆転して義昭は信長に敗北してしまいます。

 

さらに1573年の槙島城の戦いで、義昭が信長に降伏したことで、実質的には室町幕府が滅亡したことになります。

 

ちなみに光秀は義昭に公方衆として従っていました。

 

しかし、信長が義昭の政治行動を制限する「五箇条の状書」を義昭に突き付けたときに証人として名を連ねており、この時すでに義昭には見切りをつけていたと考えられます。

 

豊臣秀吉との仲はよかった?

(豊臣秀吉 出典:Wikipedia)

 

秀吉が関白になると2年半は将軍となった義昭でしたが、幕府再興の夢を諦めて将軍を辞し、戒名をもらって昌山(道休)となります。

 

晩年は元将軍として待遇良く秀吉から1万石の領地をもらい、秀吉からの文禄・慶長の役の戦への要請も受け参戦していました。

 

 

そのため、二人の仲は良かったといえるでしょう。

 

そして、秀吉の御伽衆の一人となり、話し相手にもなっています。

 

明智光秀が謀反を起こした理由に将軍黒幕説がある?

義昭の公方衆として仕えていた光秀だったので、光秀が信長に謀反を起こした理由の一つに「将軍黒幕説」というものがあります。

 

義昭は信長に敗北した後、毛利氏を頼りました。そのときも諦めずに「打倒信長」を訴え続けていました。

 

そして、1578年に毛利氏は信長の命によって出陣した羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)によって劣勢に追い込まれ、1582年には備中高松城が水攻めされてしまいます。

 

しかし、同じ年に本能寺の変が起きました。

 

 

劣勢だったはずの義昭ですが、信長が光秀によって討たれたことになります。

 

ですから、義昭と光秀が裏で繋がっているのではないかという憶測が立てられたのです。

 

「麒麟がくる」の足利義昭役は滝藤賢一さんが演じる!

Ashikaga Yoshiaki.jpg

(足利義昭坐像 出典:Wikipedia)

 

大河ドラマ「麒麟がくる」で足利義昭を演じるのは、俳優の滝藤賢一さんです。

 

 

滝藤賢一さんは、1976112日生まれ。2008年の映画「クライマーズ・ハイ」で一躍脚光を浴びてからは、バイプレーヤーとして映画やドラマに多数出演しています。

 

例えば、映画「るろうに剣心」、「64―ロクヨン―」やテレビドラマでは「東京独身男子」や「ヴァレヴァン」などです。

 

大河ドラマは意外なことに「龍馬伝」以外には出演しておらず、「麒麟がくる」は2作目の大河ドラマ出演となります。

 

足利義昭は天才だったとも暗愚ともいわれています。

 

しかし、NHKの公式サイトでは足利義昭は「政治的手腕に富み、抜群の先見性と外交力がある」と紹介されているので、名君として描かれるようです。

 

滝藤賢一さんの将軍の演技が楽しみですね。

 

まとめ

まとめ

 

 足利義昭は1537年に生まれ、1597年に没する。

 

 義昭は僧侶だったにもかかわらず還俗して室町幕府の将軍になる。

 

 光秀の仲介により信長と一緒に上洛して、室町幕府の第15代将軍になる。

 

 信長と対立し、武田信玄ら戦国大名たちと「信長包囲網」を築くも、あと一歩のところで信長に敗北し、京を追われ、室町幕府が滅びる。

 

 その後、毛利氏のところに身を寄せる。

 

 「貧乏将軍」と民衆に言われていた。

 

 織田信長とは仲が悪かったが、豊臣秀吉とは仲がよかったため、秀吉が関白になると義昭も将軍に戻る。

 

 晩年、2年半将軍になった後は将軍を辞し、道休と名乗り受戒する。

 

 晩年は秀吉の御伽衆の一人になる。当時としては長生きで61歳まで生きた。