1920年から1930年にかけては、恐慌が相次いで発生した年代です。

 

様々な要因によって引き起こされたそれぞれの恐慌は日本経済や社会に大きな影響を与えました。

 

昭和になったばかりのこの時代を学習するにあたって、とても重要な内容です。

 

そこで今回はこの『昭和恐慌(しょうわきょうこう)』について簡単にわかりやすく解説していきます。

 

昭和恐慌とは?

 

まず、恐慌の意味から説明します。

 

主に恐慌とは、大量生産や過剰な設備投資により生産と消費のバランスが崩れ、景気が大きく後退する現象です。株価暴落や企業倒産、失業が大規模に発生し、経済に深刻なダメージを与えます。

 

1929年、世界恐慌が起こった後に日本では金解禁が断行されました。

 

これにより、正貨が大量に流出し、企業の倒産、賃金の引き下げが起こり、とても深刻な恐慌を招きました。これが昭和恐慌です。

 

つまり、この恐慌は世界恐慌と金解禁の二重の打撃によって引き起こされた大恐慌なのです。

 

昭和恐慌が起こった背景

(1919年の東京駅 出典:Wikipedia)

①戦後恐慌

第一次世界大戦による大戦景気によって日本は好景気を迎えていましたが、大戦が終結すると好景気から一転し日本経済は不況へと転落します。

 

 

貿易は輸入超過となり国内生産が圧迫されました。

 

その後、株式市場の暴落を契機に戦後恐慌が発生しました。綿花などは半値以下にまで転落するほどひどい状況でした。

 

 

②震災恐慌

1923年、関東大震災が発生し、震災恐慌となりました。

 

これを受け第二次山本権兵衛内閣はモラトリアムを発令し、さらに政府は日本銀行に特別融資を行わせ、恐慌の鎮静化を図ります。

 

しかし、決済が不可能となった手形(震災手形)が発生し、不況は慢性化していくことになりました。

 

③金融恐慌

1926年、大正から昭和へと時代が移り変わると、翌1927年に不良債権化した震災手形の処理をめぐって議会で審議が行われました。

 

その議会で、片岡直温蔵相が「東京渡辺銀行がとうとう破綻を致しました」という失言をしました。

 

これにより、銀行では取り付け騒ぎが発生し、銀行の休業が相次ぐことになったのです。

 

また、戦後の不況により鈴木商店が倒産したことで、鈴木商店への巨額の不良債権を抱えていた台湾銀行は経営難に陥りました。

 

鈴木商店は三井や三菱に迫る勢いで成長を遂げていた総合商社でした。

 

そこで、第一次若槻礼次郎内閣は台湾銀行を救済するために緊急勅令をだそうとしましたが、枢密院が否決したために勅令はだせず、若槻内閣は総辞職を余儀なくされました。

 

これら主に1927年に起こったものを金融恐と呼びます。

 

 

その後、田中義一内閣が組閣すると3週間のモラトリアム(支払猶予令)を発令し、さらに日銀非常貸出で休業していた銀行を救済したことで、金融恐慌をしずめました。

 

次の浜口雄幸内閣、その次の第二次若槻礼次郎内閣の時には、井上準之助が蔵相に就任します。これは井上財政と呼ばれます。

 

 

(井上準之助 出典:Wikipedia)

 

 

1917年以来、日本では金輸出禁止がとられていましたが、欧米では第一次世界大戦後に金本位制に復活がなされていたため、欧米にならい金本位制をとり貿易を再興させる声が上がってきました。

 

 

そこで、井上準之助は徹底的な緊縮財政を行い、産業の合理化を図ります。

 

そして1930年には金輸出解禁(金解禁)を実施し、欧米に追いつこうとしました。

 

 

④昭和恐慌

しかし、1929年アメリカニューヨークのウォール街で株価が暴落したことで世界恐慌が発生しました。

 

 

井上準之助は、好景気のアメリカに金解禁を行うことで輸出を増やし、日本社会を好景気にしようと計画していましたが、世界恐慌と金解禁の二重の打撃によって深刻な恐慌へと陥りました。

 

これが昭和恐慌です。

 

昭和恐慌の発生と影響

①恐慌の発生と政府の対策

昭和恐慌が発生すると、国内では輸出が大幅に減少して輸入超過となり、正貨が海外に流出。倒産が相次いで起こり産業合理化によって失業者が大量にでました。

 

また、失業者増加に伴い、労働争議の件数も増えてしまいます。

 

そこで政府は、1931年に重要産業統制法を制定してカルテルの結成を促しました。

 

②農業恐慌へと発展

恐慌の影響は凄まじく、農村にも広がりをみせました。

 

米価をはじめとする農産物は暴落しましたが、1930年は豊作であったため「豊作貧乏」の状態となり、農家は打撃を受けることになりました。

 

しかし翌1931年には凶作となり、東北地方をはじめとする農村は著しく困窮(農業恐慌)。農村での恐慌は、欠食児童や女子の身売りにまで発展しました。

 

これらの日本全体での深刻な恐慌をまえに、政党や財閥を批判する声が高まることになります。

 

昭和恐慌後の日本

①昭和恐慌後の財政

1931年に犬養毅内閣が組閣すると、高橋是清が蔵相となり、これは井上財政と対比されて高橋財政と呼ばれます。

 

 

(高橋是清 出典:Wikipedia)

 

 

高橋是清は、金輸出再禁止を実行して円の金への兌換を禁止。そして、管理通貨制度への移行を遂げます。

 

高橋財政が制度を移行したことで通貨価値が下落して円安になり、輸出が有利になりました。例えば、1934年には綿織物の輸出が世界第一位になり、成長を遂げました。

 

高橋財政はインフレ政策であり、積極財政が可能であったことで財政膨張政策であると言えます。

 

また、満州事変により重工業が発展し世界恐慌以前の生産水準を回復させ、日本製鉄会社の誕生や日産・日窒といった新興財閥の台頭もみられるようになりました。

 

犬養毅内閣時に、高橋財政によって昭和恐慌から脱出したといえるでしょう。

 

②恐慌脱出後の海外の動向

しかしこのころ、世界恐慌からの脱出を図るため、世界の列強は苦しんでいました。

 

そこでイギリスは排他的なブロック経済圏を形成して高い関税などによる保護貿易政策を行います。

 

列強は、日本が着実に輸出を拡大していることに対して、投げ売り(ソーシャル・ダンピング)であると非難するまでになりました。

 

また、アメリカではローズヴェルト大統領が不況を抜けるために社会資本を充実させたニューディール政策を行います。

 

日本は、そのアメリカや植民地、満州などに輸入面では依存するようになりました。

 

③恐慌後の事件

一方で、恐慌からの脱出は完了しましたが、不幸な事件も起こりました。

 

昭和恐慌を経て、日本の三菱や三井を代表とする財閥が金輸出再禁止を見越して大量にドル買いを行ったのです。

 

日本各地が恐慌により窮乏する中、財閥はこの大量のドル買いにより莫大な利益をもたらしました。

 

もちろん、国民からは不満、非難の声が殺到。民衆だけではなく軍部の右翼も動きを見せ、国家改造運動が高まりました。

 

そして、1932年には前蔵相井上準之助と三井財閥の団琢磨が殺害された血盟団事件が起こりました。

 

 

その後、1932年5月15日には犬養毅首相が殺害された五・一五事件が発生しました。

 

 

この事件は海軍の青年将校によって起こされたとされ、血盟団事件とも関わっていると言われています。

 

まとめ

 昭和恐慌とは日本社会に深刻なダメージを与えた大恐慌のこと。

 昭和恐慌に至るまで、多くの恐慌が発生し、それぞれが日本社会・経済に与えた影響は大きい。

 昭和恐慌は井上財政によるデフレ政策と世界恐慌が原因である。

 高橋財政による管理通貨制度への移行によって昭和恐慌から脱出した。

 昭和恐慌は血盟団事件や五・一五事件にも繋がっている。

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