世界初の社会主義国家を樹立した革命であるロシア十月革命。
この革命は世界に社会主義という新しい政治システムを広めることとなるのですが、ロシアはそれ以前から革命の機運が高まっていた国でもあったのです。
今回はそんなロシアの最初の革命が起こるきっかけとなった『血の日曜日事件』について簡単にわかりやすく解説していきます。
目次
血の日曜日事件とは?
(軍隊による襲撃を描いた絵画 出典:Wikipedia)
血の日曜日事件とは、1905年、労働者による請願行動に対してニコライ2世の近衛兵が銃撃した事件です。
この事件によって2000人以上の犠牲者を出してしまい、後にロシア第一革命につながっていく事になるのでした。
血の日曜日事件が起こるまでのあらすじ
(1914年時点のロシア帝国領土 出典:Wikipedia)
①疲弊した国内情勢
血の日曜日事件が起こる以前、ロシアという国はその国土の殆どが不毛な大地だったことや、長い間農民を苦しめていた農奴制が1861年まで行われていたこともあり、国内の近代化や工業化があまり進んでいない状態でした。
また、ロシア国内ではモスクワやサンクトペテルブルクに住んでいる貴族や資本家と農地に住んでいた農民との間に比べ物にならないほどの格差が存在していました。
さらに、ロシアの政治システムも西洋諸国が民主主義を取り入れる中、当時の皇帝ニコライ2世は皇帝による独裁を徹底的に維持し、民主主義を空想だと一蹴していたのです。
民主主義の不導入と貴族と農民の間にあった格差。
これが血の日曜日事件が起こる直接的な理由である請願デモへと繋がっていったのです。
②日露戦争の苦戦
血の日曜日事件が起こったもう一つの理由に日露戦争にロシアが苦戦していたことがありました。
日露戦争とは1904年に起こった戦争ですが、この戦争は前評判とは真逆の展開となり、極東方面の大事な拠点であった旅順は陥落。
さらにサンクトペテルブルクから出航したバルチック艦隊が日本の連合艦隊に完敗してしまうなどロシアにとって良いとこなし。
戦争というものは勝てば、賠償金や領土などがもらえてウハウハですが、負けてしまうと何も得るものがありません。
さらにロシアの貧弱な生産力に合わないレベルの軍備を日露戦争に投入していたため、ロシア国内の国民の生活はどんどん圧迫されていきます。
こうして生活が圧迫し始めた民衆たちは、日露戦争を即刻止めるように立ち上がったのでした。
血の日曜日事件の全貌
(行進する群集 出典:Wikipedia)
①請願を行う民衆たち
日露戦争の戦局悪化・民衆の生活の圧迫などでついに我慢の限界に達してしまったサンクトペテルブルクの労働者や農民たち。
激怒した人々は、ガポンという教会の司祭をしていた人が主導となり、皇帝であるニコライ2世に対して請願を行うデモを起こします。
(ニコライ2世 出典:Wikipedia)
ここで注意して欲しいのが、この頃はまだ民衆たちは皇帝に対して敵意は持っていなかったこと。
民衆たちはこの当時のロシア皇帝は神と等しい存在だと思われていたため、このデモはあくまでも「ツァーリ(ロシア語で皇帝のこと)の恩恵と慈悲によって労働者や農民の生活をよくして下さい!」といった雰囲気で、今で言う暴動によるものではありませんでした。
そのため警察や軍隊もこのデモを鎮圧するどころか支持までし始め、皇帝が住んでいる冬宮に着く頃には2万人の農民が結集していたのです。
②近衛兵による発砲
このようにガポンによる請願デモはいたって穏健的なものだったのですが、ニコライ2世からしたらそんなこと知ったこっちゃありません。
ニコライ2世はすぐさま自分の身を守ってくれるコサック兵に対してこの労働者のデモを鎮圧するように命令します。
命令を受けた軍はすぐさまデモに参加していた労働者を銃撃して1000人以上の死傷者を出すという結果を残したのでした。
これがいわゆる血の日曜日事件の全貌なのですが、この事件によってこれまで神として崇められてきたニコライ2世の評価はガタ落ち。
労働者は一斉に自分の生活を苦しめ続ける皇帝に対して歯向かうようになったのでした。
血の日曜日事件の結果
①労働者の反乱
労働者のいたって健全な請願行動がニコライ2世によって潰されたことは、これまで農民や労働者の心の奥底に眠っていた政府や皇帝への憎悪を剥き出しにし始めます。
そして、ついに労働者たちはこの血の日曜日事件がきっかけとなり、首都サンクトペテルブルクやモスクワなどでストライキや政府への暴動を行うようになります。
さらに、この頃になると政府によって弾圧されていた共産主義をモットーとしている政党であるロシア社会民主労働党や社会革命党などは、ガポンの請願行動に対して無駄と批判する一方で、政府への反抗をより一層強めるようになりました。
②ロシア第一革命の勃発
こうしてどんどん民衆が蜂起していく中、日露戦争の方は奉天会戦で敗北するなど苦戦を強いられている状態でした。
こうなると国内中が戦争中止のムードとなっていくのですが、ニコライ2世は一度始めたことは取り返せないと戦争をやめようとはしませんでした。
民衆の要望に反して戦争を続ける皇帝。
これには民衆も大激怒。1905年6月には黒海という海に配属されていた戦艦のポチョムキンにて水兵たちが反乱を起こします。
そしてこの反乱はロシア国内に一気に波及していくようになります。
こうして血の日曜日事件とポチョムキンの反乱によってロシアではロシア第一革命が起こるのでした。
③ポーツマス条約の締結
ロシアで民衆が蜂起してさらに軍隊までもが皇帝には向かうようになると、もはや戦争どころではありません。
政府はついに民衆を苦しめ続けていた日露戦争の終結を決意し、アメリカ仲介の元でポーツマスにて講和会議が開かれることとなりました。
この講和会議にてロシア側の全権であったウイッテは出来るだけロシアのダメージを少なくするため、なんとか賠償金を支払わないようにするところまでこぎつけました。
しかし、それでも極東方面の利権を全て失うこととなりました。
④ロシアでの改革
民衆が暴れ出すとニコライ2世の命もどんどん危ういものとなっていきます。
この頃になると焦り出したのか、ニコライ2世はモスクワで鉄道員がゼネストをしたことをきっかけにウイッテ首相の下、十月宣言が発表されます。
この宣言には市民の政治活動を認めたり、国会の開設を認めたりと近代国家へとひとまず前進するような内容だったため民衆たちはひとまずの満足を得て暴動は抑えられていきました。
そしてロシア国内では1906年に憲法が制定されるなど徐々に改革が行われていくのですが、次の革命は着実に近づいていったのでした。
まとめ
✔ 血の日曜日事件とは1905年に起こった労働者による請願行動に対してニコライ2世の近衛兵が銃撃した事件のこと。
✔ この労働者のデモはいたって健全なものであり、この事件以降ロシアでは皇帝の権威が低下することとなり、民衆の反乱が頻発するようになった。
✔ 血の日曜日事件以降労働者のストライキが相次いで起こり黒海にて水兵たちが反乱を起こすとニコライ2世はついに日露戦争を終結させることを決意してポーツマスで講和会議を開いた。
✔ この血の日曜日事件によってロシア第一革命革命が起こった。