江戸時代といえば、どうしても特定国以外の海外との交流を遮断した”鎖国”というワードがついて離れないと思います。

 

ですが、江戸時代の最初の頃はというと、”鎖国”があったことがウソのように、海外と貿易を行ったり、日本人が外の世界に旅立つということを行っていたことをご存じでしたか?

 

その名残というものが、日本町(にほんまち)というエリアなのです。

 

今回は江戸時代初期に発展した『日本町』について、簡単にわかりやすくご紹介したいと思います。

 

日本町とは一体何か?いつ、どこにできたの?

(アユタヤ日本人町の跡の碑 出典:Wikipedia

 

日本町というのは、江戸時代初期ごろの1604年から1635年までの間に行われていた朱印船貿易の影響で、日本から東南アジア各国へ移住し、商業活動に従事していた日本人が形成した町のことを指します。

 

東南アジアに渡ったとされる日本人は、約10万人ほどで渡航だけでなく、移住する人もいたことがポイントです。

 

では、東南アジアといえど、どこに日本人は移住し、日本町を作ったのでしょうか。

 

当時の日本町は、東南アジアに合計8か所ありました。

 

(画像引用:ひょっこりひょう「たいわん」島/(台湾ブログ))

 

  1. アルタヤ(シャム/当時のタイ)
  2. プノンペン(カンボジア)
  3. ピニャルー(カンボジア)
  4. ツーラン(ベトナム)
  5. フェフォ(ベトナム)
  6. ディラオ(ルソン/フィリピン・マニラ)
  7. サン=ミゲル(ルソン/フィリピン・マニラ)
  8. アラカン(ビルマ/当時のミャンマー)

    これらの土地の居住者は、少ない地域で7,000人、多いところでは1万人ほどだったと言われています。

     

    日本人町が形成された理由は「朱印船貿易による商業の拡大のため」

    (朱印船 出典:Wikipedia)

     

    日本人町は、どうして作られるようになったのでしょうか?

     

    前述でも触れましたが、日本町は商業貿易の拠点として建設されました。

     

    その目的は、東南アジアの香料を直接仕入れるためと、明の商人から生糸を直接買い付けるためだったと言われています。

     

    当時の日本は、豊臣秀吉がかつて行った朝鮮出兵によって、国交が断絶し、中国(明)にいくことができなくなっていました。

     

    そのため、第三国に日本人が住む日本人町を形成することで、第三国を拠点とし、中国の商人と貿易を行うことができたのです。

     

    更にはこの日本人町のおかげで、第三国である東南アジアとも貿易を行うことができたので、貿易従事者にとっては願ったりかなったり、というわけだったのです。

     

    日本人町と朱印船貿易

     

    当時の江戸幕府は、徳川家康主導のもと豊臣秀吉がかつて使用していた朱印船貿易のアイディアを拝借し、朱印船貿易を実行したのです。

     

    朱印船貿易は、徳川幕府にとって非常にメリットがあったのです。その理由は2つありました。

     

    ①朱印状を発行するだけで儲かった

    朱印船貿易というのは、朱印状という貿易許可の書状がないと幕府から貿易行為を許してもらえませんでした。

     

    その発行枚数は、朱印船貿易が行われていた約30年間の間に、なんと350通以上といわれています!

     

    徳川幕府において、徳川家康が朱印船貿易を開始ししたのは1604年でしたよね?実をいうと、徳川幕府が開かれた翌年のことなのです!

     

    そのため、生まれたばかりの新幕府にとっては、朱印状を有料で発行することでお金が入るのですから、徳川幕府の財政も自然に豊かになるという仕組みだったのです。

     

    ②朱印船貿易の利益を、一部幕府に納めさせた

    さらに、朱印船貿易を行う大名や商人たちからは、朱印船貿易で得た利益の一部を幕府に納めさせていたのです。

     

    当時は、商人だけでなく、大名も日本町を作りながら積極的に海外との貿易を行っていたのですから、幕府は黙っていても儲かっている、というわけです。

     

    日本人町と山田長政

     

    日本人町を語るにあたって、切っても切れない人物がいます。

     

    それは山田長政(やまだながまさ)という、駿河(当時の静岡県)出身の人物。

     

    YamadaNagamasa.jpg

    (山田長政 出典:Wikipedia)

     

    山田長政は、なんとタイの教科書にも名前が載っているという、超有名な人物なんです。

     

    山田長政は、1611年に朱印船でシャム(当時のタイ)にわたり、アユタヤの日本人町のリーダーになりました。

     

    さらに、町のリーダーにとどまらず、日本人の兵隊を率いてアユタヤ朝のシャム国王に使えて多くの手柄を勝ち取るまでに至ったのです。

     

    更には、高い地位も貰いつつシャムの王女と結婚までし、絶対的な信頼を得ることとなったのです。

     

    貿易をするうえで、現地の人と適切なコミュニケーションが必要ですが、山田長政のような人物たちがたくさんいたのでしょうね。

     

    しかし、山田長政を庇護していたアユタヤ朝の王が亡くなったその後は悲しいものでした。

     

    アユタヤ朝における、皇位継承問題に巻き込まれてしまった山田長政は、彼を恐れる次の王様に左遷され、最後には傷口に毒を塗られて亡くなりました。

     

    更には、『日本人は反乱の可能性がある』という根拠のない理由から、アユタヤの町にあった日本人町は焼き討ちにされたのです。

     

    日本人町のその後

     

    それでは、日本人町は、その後はどうだったのでしょうか?

     

    朱印船貿易は1635年、キリスト教に対する禁教令を皮切りに、最終的には鎖国を理由に廃止となりました。

     

     

    日本が決められた国以外との貿易を禁ずるのはどういうことかというと、それ以外に住む日本人の帰国を許すこともなく、更には日本人の海外渡航も禁じてしまったのです。

     

    焼き討ちになって、散り散りとなったアユタヤの生き延びた日本人たちは再集結し、なんと新たなアユタヤ日本人町を形成したのでした。

     

    しかし、そのころには日本は鎖国となり、新たな日本人が海を越えることはなくなるのでした。

     

    これにより、復興したアユタヤ日本人町をはじめとする東南アジアの日本人町は、衰退の一途をたどることとなりました。

     

    現在の日本人町は、アユタヤのようにかつての歴史遺産として観光名所となっていることが多く、当時を忍ぶことができるようになっています。

     

    まとめ

     日本町は、1604年から1635年までの間に行われていた朱印船貿易に従事していた人たちが日本から東南アジア各国へ移住し、形成した町のこと。

     日本人町は当時8か所あった。代表的なのがアルタヤで、他にもプノンペン、ピニャルー、ツーラン、フェフォ、ディラオ、サン=ミゲル、アラカンがあった。

     朱印船貿易では、東南アジアの香料を直接仕入れるためと、交易断絶状態の明の商人から生糸を直接買い付けるために第三国の存在が必要だった。

     江戸幕府初期の頃の幕府は、朱印船貿易で多大な利益を得ていた。

     日本人町を語るに外せない山田長政は、アユタヤの日本人町を取りまとめていたが、王位継承問題に巻き込まれてしまい、毒殺されてしまう。

     アユタヤの日本人町は、一度焼き払われるも、諸外国に散らばった日本人の手で復興。

     しかし、日本は鎖国に突入し、日本人の海外進出が出来なくなってしまった。それと同時に、海外に出た日本人が日本へ戻ることができなくなってしまい、人の流入がなくなる。

     鎖国が始まったことにより、日本人街は忘れ去られてしまう。

     東南アジアに形成されていた日本人町は現在、アユタヤのように観光名所として、当時を私たちに思い起こさせてくれる場所となっている。

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