昭和の始めに起こった血盟団事件は、右翼による連続テロ事件です。

 

事件が起こった背景には何があったのでしょうか?また、この事件で日本の政治はどのように変わっていったのでしょうか?

 

今回はそんな『血盟団事件』についてわかりやすく解説します。

 

血盟団事件とは

(法廷中の血盟団事件の被告 出典:Wikipedia

 

 

血盟団事件とは、1932年(昭和7年)の2~3月にかけて起こった連続テロ事件です。

 

茨城県大洗町を拠点として政治活動を行っていた日蓮宗の僧侶である、井上日召が青年たちを集めて、政治家や財界の大物を狙ったテロによる国家改造計画を立てたのでした。

 

このテロにより、前大蔵大臣の井上準之助と三井財閥のトップである團琢磨が暗殺されました。

 

テロ事件に加わった青年たちの集団は、事件の後、井上日召を取り調べた検事により「血盟団」という名前がつけられました。

 

血盟団事件の数ヵ月後には、内閣総理大臣の犬養毅を暗殺する「五・一五事件」が起こりました。

 

血盟団事件はなぜ起こったのか?

 

 

茨城県という地方に住む一僧侶の呼びかけが始まりで、血盟団事件は起こりましたが、なぜ、こうしたテロ事件が起こったのでしょうか。

 

単に日本の政治、経済を混乱させようとした訳ではなく、そこには当時の日本の政治、経済などの行き詰まりがありました。

 

①昭和初期(1926年から1931年)の政治状況

昭和は1926年に昭和天皇が即位して始まります。その後、血盟団事件が起こる1932年の間に、日本の政治は大きく変化していきます。

 

1928年に行われた衆議院総選挙は、日本で最初に普通選挙法が適応された選挙でした。

 

この法律により、今まで納税額で制限されていた選挙権が、日本国内に住む25歳以上の成年男子に与えられ、民主主義が一つ一つ実現されていった時代でもありました。

 

その一方で、1931年に起こった満州事変柳条湖事件では関東軍が政府の方針を無視して、独断で行動を起こすなど軍部の力が強くなっていったのです。

 

 

この年には、日本陸軍によるクーデターも起こりました。結局、計画のみで実行はされませんでしたが、民主主義とは根本から対抗する、軍の力や暴力を使って政治を動かそうとする動きが出てきたのです。

 

②昭和初期の経済状況

昭和が始まった1926年の翌年、昭和金融恐慌が起こります。

 

 

この恐慌のため、国民が中小銀行から大きな銀行へと預金をするようになり、結果として大きな銀行を所有する財閥が成長することになりました。

 

1930年から1931年には昭和恐慌昭和農業恐慌が起こり、特に農村が大打撃を受けます。

 

これは、1929年に起こった世界恐慌と1931年1月の金輸出解禁の影響を受けて、銀価格に続き、米や生糸の価格が暴落しました。また、企業の倒産などで大量の失業者も出たのです。

 

1931年はヨーロッパでも主要な大銀行が倒産し、ヨーロッパも経済的混乱が起こりました。こうした状況から、日本の大銀行はドルを大量に買い始めます。

 

このドル買いにより、大銀行を抱える住友、三井、三菱などの財閥は莫大な利益を上げていきます。

 

日本国民の生活が貧しくなる一方で、財閥はより一層利潤を増していったことは、国民の中に財閥と政府への反感を強めていく結果となりました。

 

③井上日召と十月事件

井上日召は、政党財閥と特権階級が一緒になって、私利私欲にのみ没頭しており、これらの古い勢力を倒して天皇中心の国家改造運動を主張します。

 

行き詰まった政治、経済状況から、こうした主張は農村の青年たちにも受け入れられていきます。

 

また、力をつけてきた日本軍の中にも協力をするものが出てくるのです。

 

この動きは、十月事件というクーデター事件となって現れます。

 

十月事件とは、陸軍の幹部が中心になって計画した政府を攻撃するクーデター事件です。計画のみと終わった、この事件には井上日召も民間側として参加していました。

 

計画が実行されなかったことにより、民間側が軍に頼らず、自分たちの力で何かをしようという思いが生まれたことが血盟団事件へとつながっていくのです。

 

血盟団事件の詳細・経過

 

 

それでは、血盟団事件を起こしたメンバー、テロの標的とされた人物にはどんな人がいたのでしょうか。

 

①血盟団主要メンバー

井上日召

(井上日召 出典:Wikipedia

 

 

日蓮宗の僧侶で、茨城県大洗町の立正護国堂の住職でした。

 

海軍の藤井斉中尉や政治運動家の橘孝三郎と知り合い、暴力によって国を変えていくという考えに同調します。血盟団事件を起こしたときは、「一人一殺主義」を掲げていました。

 

小沼正

(小沼正 出典:seizejapan

 

 

茨城県那珂郡の漁業を営む家に生まれます。実家の事業は失敗し、大工に弟子入りしたり、東京で店員をしたりします。

 

貧しさからなかなか抜け出せず、昭和恐慌の時は、家族はバラバラとなってしまいます。病気となった正は実家に帰り、そこで井上日召と知り合います。

血盟団事件では、井上準之助を暗殺することになります。

 

菱沼五郎

茨城県那珂郡の農業の三男として生まれます。鉄道学校を卒業して、東武東上線池袋駅に就職するつもりが、色盲で就職することができませんでした。

 

うちひしがれていた時に、井上日召の護国堂に通い始めます。血盟団事件では、團琢磨を暗殺することになります。

 

その他

この他に、五・一五事件に関わった川崎長光や奥田秀夫もいました。

 

川崎は、五・一五事件に反する行動を取った陸軍の西田税を暗殺しようとし、未遂に終わっています。奥田秀夫は、五・一五事件当日、三菱銀行前に手榴弾を投げ込みました。

 

血盟団のメンバーは、農村出身のものや東大生、京大生、小学校教諭などの若者たちでした。

 

②テロの標的にされた人物

(團琢磨 出典:Wikipedia

 

 

財界関係の人物では、池田斉彬と團琢磨で、二人とも三井財閥のトップでした。

 

政界関係では、内閣総理大臣の犬養毅、前内閣大臣の若槻禮次郎、前外務大臣の幣原喜重郎、前大蔵大臣の井上準之助らが標的とされました。

 

特権階級にいる人物として、元老の西園寺公望、貴族院議長の徳川家達、内大臣の牧野伸顕、枢密院議長の伊東巳代治らが暗殺の目的とされたのです。

 

この中で、実際に暗殺されたのは、團琢磨と井上準之助の2名だけでした。

 

③暗殺された團琢磨と井上準之助

(井上準之助 出典:Wikipedia

 

 

1932年2月9日、民政党の幹部であった井上準之助は、選挙応援演説会のために東京、本郷にある駒本小学校を訪れたところ、拳銃を持った小沼正に撃たれます。

 

小沼はその場で駒込署員に逮捕され、井上は病院に運ばれましたが、死亡しました。

 

井上準之助は、大蔵大臣の時に金解禁を行い、そのため日本が世界恐慌に巻き込まれたこと、また、予算削減により海軍に圧力をかけたことが標的の理由にされました。

 

3月5日、東京日本橋にある三井銀行本店の前で、出勤してきた團琢磨を、菱沼五郎がピストルで射殺します。菱沼もその場ですぐに逮捕されました。

 

團琢磨は、三井財閥がドル買投機の先頭に立っていたこと、また労働組合法に反対していたことが標的の理由と言われています。

 

血盟団事件が与えた影響

(五・一五事件を伝える新聞 出典:Wikipedia

 

 

血盟団事件が、その後の日本の社会、政治に与えた影響は、どういうものだったのでしょうか。

 

①五・一五事件へと続く

実行犯として逮捕された小沼と菱沼が同じ茨城県出身だったことから、井上日召を先頭とする暗殺集団が捜査上に浮かびます。

 

結局、井上は自首をし、その後関係者として14名が一斉に検挙されます。さらに、小沼が拳銃を海軍の藤井斉中尉からもらったと自白しますが、軍関係からは誰も逮捕されるものはいませんでした。

 

ただ、この事件以降、政府に攻撃をするテロ事件は、軍人たちが担うような形になります。

 

1932年5月15日に起こった、五・一五事件は海軍の一部青年将校たちが内閣総理大臣の犬養毅を暗殺するという事件でした。

 

 

五・一五事件の計画の中心人物は、血盟団事件とも関わりのあった海軍中尉、藤井斉でした。藤井は前年中国で起こった上海事変で戦死し、その遺志を仲間たちが実行するという形で、事件は起こりました。

 

この事件に関わった青年将校たちには、政党政治の腐敗に反感する国民与論もあり、助命嘆願書も出され、刑は軽いもので終わったのでした。

 

それが、1936年に起こる二・二六事件へと繋がっているのではないかという意見もあります。

 

②二・二六事件とは

1936年2月26日に陸軍の青年将校たちが約1400名にのぼる下士官たちを率いて起こしたクーデター事件です。

 

将校たちは、当時の内閣総理大臣岡田啓介や侍従長鈴木貫太郎、大蔵大臣高橋是清などの政治家を襲撃しました。さらには、総理大臣官邸、警視庁、陸軍省、朝日新聞などを占拠します。

 

こうして、陸軍のトップを通して天皇に昭和維新を訴えましたが、天皇の拒否にあいます。結局、クーデターを起こした将校たちは、陸軍と政府に包囲され、事件は未遂と終わりました。

 

この事件の結果、岡田内閣は総辞職し、高橋是清が殺害されました。そして、クーデターを起こした将校の一部は自決し、大半は逮捕され、法定で争う姿勢を見せますが、事件の中心にいたものたちは絞首刑となりました。

 

 

血盟団事件主要メンバーのその後

 

血盟団メンバーは、その後昭和をどのように生き抜いたのでしょうか。

 

血盟団事件で無期懲役の刑を受けた井上日召と小沼正、そして菱沼五郎は、1940年には恩赦を受けて出所します。

 

その後、井上日召は戦後右翼団体「護国団」を作り、活動を続けます。ちなみに、オウム真理教との関係を言う人もいますが、それはオウム真理教の井上嘉浩が井上日召の孫だという噂があるためです。

 

小沼正は、戦後業界公論社という出版社の社長になります。右翼活動はさらに続け、「一殺多生」という本を執筆しています。

 

菱沼は茨城県に帰り、1958年には茨城県議員に当選し、その後8回連続して当選するなど、県政の実力者となります。

 

ちなみに、血盟団事件を描いた映画が1969年に作られます。小沼正を中心に血盟団事件が描かれています。

 

まとめ

・血盟団事件とは、昭和の初めに起きた国を改革しようとしたテロ事件である。

・血盟団のメンバーは、日蓮宗の僧侶である井上日召を中心に、農村出身の若者や大学生などがいた。

・テロの標的となったのは、政界、財界の主要人物たちであった。

・事件の背景には、恐慌や経済政策の失敗からくる国民の貧しさ、一方で利益を上げる財閥や政治家たちがいた。

・この事件をきっかけに、陸軍、海軍の青年将校たちが起こすテロ事件が続いた。

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