南北朝の動乱が終息し、室町幕府が確立されつつあった14世紀後半から15世紀前半にかけて日本は東アジアとの交易を行うようになりました。

 

また、琉球王国の誕生に伴う交易や畿内と十三湊間での日本海交易、蝦夷ヶ島との交流なども行われました。

 

この時代に足利義満によって開始された日明貿易は中断、再開を経て長期にわたり行われて、室町幕府に多大な影響を与えました。

 

今回は、そんな『日明(にちみん)貿易』について簡単にわかりやすく解説していきます。

 

日明貿易とは?

(足利義満 出典:Wikipedia)

 

 

室町幕府第3足利義満によって南北朝の統一が実現されると、義満は1368年に朱元璋によって建国された明との間に正式な国交を結び、朝貢形式で日明貿易を開始しました。

 

その貿易の形から、勘合貿易とも呼ばれ、貿易は日本に多くの利益を生み出しました。

 

また、貿易の執権が将軍から大内氏・細川氏などの有力守護へと移るなどの展開もみせました。

 

この日明貿易は開始から衰退まで約150年もの間続いた貿易です。

 

日明貿易が行われた背景や理由

(明と周辺諸国 出典:Wikipedia

 

 

鎌倉時代や室町時代の初めの頃、中国が宋や元と呼ばれていた時代には日本との間に正式な国交が開かれることはなく、主に私貿易が行われていました。

 

室町以前の私貿易

 

平氏政権の時には日宋貿易が主に大輪田泊で行われ、宋銭などが輸入されて日本の貨幣経済の浸透につながりました。

 

また、鎌倉時代には日元貿易が行われ、建長寺の修築のために建長寺船の派遣、さらには天龍寺の建立費用獲得のために天龍寺船を派遣するなどして中国との交流は続けられました。

 

 

その後、1368年に朱元璋が明を建国すると明を盟主とする東アジアの国際秩序の形である冊封体制の復活を目指します。

 

そこで、明は貿易を諸国の王と朝貢貿易のみに限定し、外国との交易や、中国人の海外渡航までも禁止した海禁政策を行いました。

 

そのため、以前から行われてきた私貿易は取り締まりの対象となりました。

 

そして、南北朝の動乱の頃から多く見られた倭寇の禁圧と明への朝貢貿易の要求が日本に出されました。

 

そこで、南北朝の動乱を統一した足利義満は正使の祖阿、副使の肥富を遣明船に搭乗させて正式な国交を開き、ついに日明貿易が開始されます。

 

日明貿易の詳細

①朝貢・勘合形式の貿易

日明貿易は朝貢形式で行われる貿易でした。

 

朝貢貿易とは、冊封体制をもとにして諸国の王が明の皇帝に朝貢して、その返礼として何かしかの品物を受け取る形で行われる貿易のことです。

 

また、明の皇帝は国王としか貿易は認めないことになっていた(海禁政策)ので、足利義満は皇帝に送る公式文書に「日本国王」と記しました。

 

これで、日本が皇帝に朝貢し、明が日本に冊封する形で日明貿易は正式に成立することとなったのです。

 

そして、当時は倭寇の動きも盛んだったため、明と貿易を行う遣明船明が交付した勘合と呼ばれる証明書を持参し、貿易の際に明の商人の持つ勘合符と合わせることで正式な貿易船であると証明して貿易を行いました。

 

(※このため、日明貿易を勘合貿易とも呼ばれています)

 

そして1404年に寧波に入港して、貿易が開始されました。

 

貿易開始から中期にかけての中国・朝鮮との外交や関連文書を集めたものとして瑞渓周鳳が編纂した『善隣国宝記』が有名です。

 

②貿易での主な輸入品・輸出品

日明貿易では、多くの物品が輸出入されました。

 

輸出品としては刀剣などの武器や、工芸品、・硫黄などの鉱物でした。

 

また、主な輸入品としては、銅銭(永楽通宝など)生糸、陶磁器などが有名です。

 

これらは唐物として珍重されました。

 

③貿易開始後の流れ

足利義満の死後、4代将軍足利義持は朝貢貿易を嫌ったため中断させました。

 

しかし、6代将軍足利義教が貿易を再開させます。

 

 

(足利義教 出典:Wikipedia)

 

 

1467年には日本では応仁の乱が発生。この乱後は有力守護などがおおく台頭する時代となり、その影響もあり、日明貿易の実権にも変化がみられました。

 

 

応仁の乱前は、将軍により貿易が行われていましたが、乱後は有力守護や商人へと移りました。

 

当時、博多は中国大陸に近く、以前から中国や朝鮮と貿易を行っていました。

 

そこで、大内氏が筑前守護となったことで実権を握り、大内氏は博多商人と組んだことで貿易を行います。

 

一方、和泉の堺は瀬戸内海の港町として発展を遂げましたが、応永の乱後に細川氏の守護所となったため、細川氏は博多商人と組んで貿易を行いました。

 

その後、大内氏・細川氏が貿易を行っていくうちに貿易の主導権をめぐって対立。1523年、寧波で互いが激しく対立した寧波の乱が発生しました。

 

 

細川氏は賄賂を贈るなどして貿易の優先権を得たとされていました。そのことに憤激した大内氏は、細川氏の貿易船を焼くなどして寧波の乱に勝利します。

 

こうして貿易は一時中断を経て、大内氏が独占しました。

 

その後、16世紀後半(1551)に大内氏が滅亡したことで、日明貿易は廃絶したのでした。

 

朝鮮・中国沿岸で活動していた倭寇は日明貿易開始とともに衰退しました(前期倭寇)が、次は日明貿易が衰退すると、再び倭寇が現れ(後期倭寇)中国南部などで密貿易を行いました。

 

 

この後期倭寇は、明の滅亡の一因になったとも言われています。

 

また、後期倭寇の活動を描いた絵画である『倭寇図巻』も有名です。

 

日明貿易の影響

 

 

日明貿易では朝貢形式がとられて、関税なし・滞在費は明の負担といった状況だったため、日本側の利益は莫大なものでした。

 

また、貿易の際に幕府の運営を請け負った商人が貿易船に載積した物品の売買で得た利益の10分の1を幕府に収める抽分銭や、生糸や銅銭も幕府の収入となりました。

 

このように日本の経済を潤したことも日明貿易の特徴のひとつです。

 

また、大量に輸入された明銭は日本の貨幣流通に多大な影響をもたらしました。

 

鎌倉時代から輸入された宋銭などにより貨幣は流通していましたが、日明貿易による明銭(永楽通宝・洪武通宝・宣徳通宝)の輸入は、貨幣経済の発展に拍車をかけました。

 

 

(永楽通宝 出典:Wikipedia

 

 

そして、年貢の銭納が次第に一般化したことで粗悪な私鋳銭などが流通し始めました。

 

年貢納入の際だけでなく、様々な取引時にも私鋳銭が用いられたため、商人などは取引にあたって悪銭をきらい良質の貨幣を選ぶ撰銭が行われて円滑な流通が阻害されました。

 

そのため、幕府・戦国大名などは特定の悪貨の使用を禁じたり、各銭貨の交換比率などを定めたりする撰銭令を出しました。

 

 

まとめ

 日明貿易はとは、足利義満により開始された明との間の貿易のこと。

 勘合を用いて貿易が行われたため、勘合貿易とも呼ばれる。

 貿易開始後、足利義持によって中断されて、足利義教によって再開された。

 主な輸入品は銅銭(明銭)、生糸などで輸出品は武器、工芸品、銅などの鉱物である。

 15世紀後半、室町幕府の衰退とともに博多商人と結んだ大内氏と堺商人と結んだ細川氏に貿易の実権が移る。

 寧波の乱後は大内氏が勝利し、滅亡まで貿易を独占した。

 貿易で得た明銭は日本の貨幣経済の浸透に影響を与えた。

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