2020年の大河ドラマである『麒麟がいく』。

 

今回の大河ドラマでは明智光秀だけでなく、彼を取り巻く戦国武将達の存在や人間ドラマにも注目が集まってきています。

 

今回の大河ドラマ『麒麟がくる』は、激動の戦国時代を生きた武将・明智光秀(あけちみつひで)を中心に描かれた歴史ドラマです。

 

 

明智光秀だけではなく、大河ドラマ『麒麟がいく』では彼を取り巻く数多くの人物が登場しますが、その中でも細川藤孝(幽斎)は、明智光秀の盟友として有名な人物でもあり、今回の大河ドラマ『麒麟がくる』でも活躍必須の戦国武将となっています。

 

今回は、細川藤孝(幽斎)という戦国武将について、人物像や経歴を中心に、わかりやすく解説していきます。

 

細川藤孝(幽斎)の生涯

 

まず最初に、細川藤孝(幽斎)はどのような経歴の持ち主なのでしょうか。経歴を簡単にまとめてみました。

 

細川藤孝(幽斎)の生涯年表

 

  • 1534年 生まれる
  • 1540年 細川元常の養子になったとされる 
  • 1546年 細川藤孝を名乗る
  • 1552年 従五位下・兵部大輔(軍事行政を担当する指揮官)を任せられる
  • 1565年 永禄の変で幽閉されていた足利義昭を救出。明智光秀を通じ織田信長に助けを求める
  • 1568年 織田信長・足利義昭を奉じて上洛の折に同行
  • 1578年 足利義昭の追放後、勝竜寺城の城主となり、長岡藤孝を名乗る
  • 1580年 明智光秀の助力で丹後南部を平定、宮津城を築城
  • 1582年 本能寺の変が勃発するも隠居。幽斎玄旨を名乗り、家督を息子の細川忠興に譲る
  • 1586年 豊臣秀吉より山城西ヶ岡に3,000石を与えられる
  • 1587年 九州平定に出陣
  • 1598年 豊臣秀吉の死後、徳川家康に接近する
  • 1600年 田辺城の戦い
  • 1610年 京都三条車屋町の自邸で亡くなる(享年77歳)

 

細川藤孝は、なんと幕臣の出身という経歴を持っていました。

 

時代は戦国時代、主君も入れ替わり立ち代わりの時代にもかかわらず、細川藤孝のように江戸時代まで生き抜いた人物は大変珍しいです。

 

では細川藤孝とは、いったいどんな人物なのでしょうか?詳しく見ていきましょう!

 

細川藤孝(幽斎)の人物像と壮絶な人生

(絹本着色細川幽斎像 出典:Wikipedia)

 

細川藤孝(幽斎)は、1534年に三淵晴員(みつぶち はるかず)の次男として、京都東山に生まれます。

 

母は室町幕府12代将軍・足利義晴の側室だったという経歴があるんです。

 

さらに、細川家自体が室町幕府の重要ポジションである管領(かんれい)につける家柄であったことから、華々しい経歴を持っています

 

このときに教養を身に着けたりしていたとされているため、まさにエリート街道まっしぐらの人物です。

 

しかし、それもつかの間、1565年の永禄の変で事態は悪化するのでした。

 

①永禄の変で流浪生活が始まる

1565年に、剣豪将軍として有名だった室町幕府13代将軍・足利義輝が暗殺されるという永禄の変が起きます。

 

 

この時の細川藤孝(幽斎)は32歳でした。

 

この時幽閉されていた弟の足利義昭を救出しているのですが、この時に細川藤孝は流浪生活をするに至ったのでした。その時のエピソードに、神社から照明用の油を失敬したという話があるくらいです。

 

室町幕府再興のために、足利義昭らと共にあちこちの戦国大名を訪ね歩き、その折に越前朝倉氏のところにもお世話になっていたんだとか…。

 

ここで出会ったのが、明智光秀だったのです。彼らはこの時に、親交を深めていたのですね。

 

②細川藤孝(幽斎)、織田信長と出会う

細川藤孝は、足利義昭の上洛並びに将軍就任をお願いするために、明智光秀と共に織田信長の元を訪れます。

 

これをきっかけに、明智光秀と共に織田信長の家臣のように働くようになり、最終的に織田信長と足利義昭の対立が深まった1573年に織田信長の傘下に入ることとなったのです。

 

 

こうして、織田信長に仕えるようになった細川藤孝は、長岡(現在の京都府長岡京市周辺)の領地をもらい、姓を長岡と名乗るようになったのでした。

 

③息子・細川忠興の妻は明知光秀の娘!

細川藤孝の息子として有名な武将・細川忠興がいますが、彼の妻は細川玉子(ガラシャ)というキリシタンの女性でした。

 

なんとこの娘は、明智光秀の娘だったのです。

 

2人の婚姻が決まったことで、細川藤孝と明智光秀のつながりも強くなり、行動を共にすることが増えていきました。

 

そんな折に、本能寺の変が勃発するのです。

 

④本能寺の変に応じなかった

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(本能寺焼討之図 出典:Wikipedia)

 

1582年に本能寺の変が起きます。

 

この流れで行けば、細川家は明智光秀の肩を持ち、ともに織田信長を倒そうとするかと思いますよね。

 

ですが、細川藤孝が選んだ選択は、明智光秀からの出陣要請を断ることでした。

 

親子ともども出陣の要請を受けても全く応じることなく、仕舞には出家しますとまで発言します。

 

細川藤孝は、非常に現実的な選択を取ったのでした。

 

 

⑤豊臣秀吉に寵愛されるも、関ヶ原は徳川へ

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(豊臣秀吉 出典:Wikipedia)

 

その後、豊臣秀吉が天下を治めます。

 

豊臣秀吉は、教養の高かった細川藤孝を大事にしていました。

 

どちらかというと細川藤孝の活躍は文化人としてで、茶会などでの仕事が増えてきました。この時すでに隠居していた細川藤孝ですから、文化的な活躍が多かったのでしょう。

 

そして、豊臣秀吉が亡くなる前後にはすでに豊臣家を見限っていて、家康に急接近します。

 

関ヶ原の戦いでは当然のごとく東軍についたのです。

 

 

関ヶ原の戦い直前!田辺城の戦いで勅令による講和が出るほどの人物だった

田辺城の戦いでは、細川藤孝の持つ武力…ではなく、皇室の人たちに愛されていた古今伝授と呼ばれる和歌などの解釈が失われてはいけないという理由で、戦を止めるように当時の弟子であった八条宮智仁親王から直々の講和があったくらいでした。

 

何故かというと、古今伝授は細川藤孝の頭の中にのみ存在したから

 

こんな貴重な伝搬をできるのは細川藤孝だけで、皇室としても守り抜きたいという気持ちがあったのでしょう。

 

細川藤孝はこれにも応じなかったため、ついに後陽成天皇直々の勅令まででます。

 

こうして細川藤孝らの命が助かり、田辺城の戦いが終息したのでした。

 

⑦悠々自適な晩年

こうして関ヶ原の合戦前にぎりぎり命が助かった細川藤孝は、この時70歳手前!

 

亡くなる1610年までの間は、ホントのホントに隠居生活を満喫するのでした。

 

隠居していたのも京都東山周辺だったのですから、きっと静かな余生だったことでしょう。

 

麒麟がくるで細川藤孝(幽斎)を演じるのは「眞島秀和さん」!

大河ドラマ『麒麟がいく』で、生涯血気盛んな現実派、文武両道武将の細川藤孝(幽斎)を演じるのは、眞島秀和さんです。

 

 

なんと眞島秀和さんは、あの戦国武将・上杉謙信のお膝元である山形県米沢市出身とのことです!

 

戦国武将にゆかりのある地からの大河ドラマ参戦は、運命を感じさせる予感です。

 

アラフォーの名脇役とも謳われる眞島秀和さんは、細川藤孝をどのように演じ、どのように明智光秀を演じる長谷川博己さんと絡んでいくのでしょうか?

 

今から楽しみですよね!

 

まとめ

まとめ

 

 細川藤孝(幽斎)は文武両道の武将だった。

 

 エリート出身だったものの、永禄の変で立場が落ちてしまう。

 

 明智光秀のとりもちで織田信長に仕えるようになる。

 

 細川藤孝(幽斎)は明智光秀の盟友で、子供同士の結婚を機に親戚関係になる。

 

 豊臣秀吉→徳川家康と主君を変えていく。

 

 細川藤孝(幽斎)の持っていた古今伝授のおかげで、大きな戦一つが勅令で講和に至った。

 

 晩年は完全隠居で静かに余生を満喫した。

 

 ドラマ『麒麟がいく』で細川藤孝(幽斎)を演じるのは、アラフォーの名脇役・眞島秀和さん。