「シベリア出兵」と聞いて、いつの時代、どのような出来事かということが思い浮かばない人も多いのではないでしょうか?第一次世界大戦からの流れを一緒に覚えるのがポイントです。

 

理解を深めるためにロシア革命、そして米騒動との関係も併せてしっかり押さるようにしましょう。

 

今回は、『シベリア出兵』について簡単にわかりやすく解説していきます。

 

シベリア出兵とは?

(出兵前にパレードを行う各国軍隊 出典:Wikipedia

 

 

「シベリア出兵」とは、第一次世界大戦が終戦を迎える年である1918(大正7年)から1922年(大正11年)にかけて、日本・アメリカ・イギリス・イタリアなどがシベリアに軍隊を送った出来事です。

 

その真の目的はロシア革命に対して干渉するためでした。

 

シベリア出兵の背景・目的

(ソビエト連邦 出典:Wikipedia

 

 

シベリア出兵のきっかけは第一次世界大戦中の1917年に起きたロシア革命です。

 

レーニンが主導したロシア革命によってソビエト政権(後の社会主義政権、ソビエト社会主義共和国連邦)が樹立しました。

 

当時の日本・アメリカ・イギリス・イタリアなどは資本主義の国でありました。

 

そのため、これらの国の指導者たちは社会主義を危険なものと捉え、社会主義の考え方が世界に広がると困ると考えました。

 

そこで日本は、アメリカなどと共にシベリアに出兵すると発表したのです。これがシベリア出兵です。

 

シベリア出兵の詳細

(シベリア出兵を伝える日本の画報 出典:Wikipedia)

 

 

ソビエトの社会主義政権を潰すという目的でシベリアに出兵することになったものの、出兵するにはそれ相応の理由が必要となります。

 

そこで、シベリア出兵するアメリカ・イギリス・フランス・日本は大義名分として「ロシアに残っているチェコスロバキア軍の救出」が掲げました。

 

では、ここからはよりシベリア出兵についての理解を深めるために、さらに詳しくシベリア出兵に至るまでの経緯をみていきましょう。

 

①第一次世界大戦とロシア

1914年7月、ドイツを中心とした同盟国軍とイギリス、フランスを中心とした連国軍が対立し、第一次世界大戦が勃発しました。

 

ロシアは連合国軍側として参戦していましたが、大戦の膠着状態によって国内では輸出入や物流の停滞が起き、物価の高騰やインフレーションが起こりました。

 

その結果、ロシアの国内各地で暴動が起きるようになっていったのでした。

 

こうした国内の状況を打破するため遂に1917年にロシア革命が起きたのです。

 

 

②ロシア革命によって資本主義から社会主義へ

国内の情勢が不安定になっていた当時のロシアの臨時政府は、それでもイギリスとフランスとの協調政策をとりながら、ドイツとの戦いを引き続き行うと発表しました。

 

しかし、国民の大半を占める農民や労働者、下級兵士が戦争反対を強く訴え始めたのです。

 

このころのロシアは資本主義社会。資本主義は貧富の差がはっきりと分かれるという主義だとして国民の不満も高まってきました。

 

そして、スイスに亡命し社会主義の研究をしていた学者レーニンがロシアに帰国したことで、ロシアは社会主義国家へと大きく舵を取っていくことになるのでした。

 

③レーニンによる社会主義国家の確立

(ウラジーミル・イリイチ・レーニン 出典:Wikipedia

 

 

ロシアに帰国したレーニンは政府との対決姿勢を打ち出し、政府から政権を奪還する動きをみせます。

 

レーニンは競争主義である資本主義を痛烈に批判しました。

 

特に、第一次世界大戦は資本主義が生んだ経済戦争であるという点、そして貧富の差も資本主義だからこそ生じると訴えました。

 

こうしたレーニンの考えに多くの国民が賛同し、やがて政府の制圧に成功、レーニンが社会主義国家を宣言しました。

 

④ロシアの第一次大戦離脱とイギリス、フランスの懸念

国内の主導権を握ったレーニンは、1918年3月、各国に即時停戦を呼びかけます。そして、ドイツとブレスト=リトフスク条約を結び、第一次世界大戦の戦線から離脱しました。

 

連合国軍の敵対国であるドイツが本来は連合国軍であったはずのロシアと講和したのですから、連合国軍の中心であるイギリスとフランスは大きく困惑しました。

 

一方、ドイツの思惑としては第一次世界大戦にアメリカが参戦したことで形勢が不利になっていたため、レーニンを後押しすることで形勢の逆転を図ったのでした。

 

⑤ドイツ軍の裏切りに対する連合軍のシベリア出兵

その後、ドイツは西部戦線に大攻勢をかけ、イギリス、フランス両国は撤退を余儀なくされます。

 

そして、イギリスとフランスは盟友国である日本とアメリカに援軍を要請しました。

 

これがシベリア出兵です。シベリア出兵とは連合国軍による対ソ干渉戦争なのです。

 

シベリア出兵の影響・結果

(ピンク部分がウラジオストク 出典:Wikipedia

 

 

1918年8月、日本は約1万2千人の日本兵が日本海に面したロシアのウラジオストクに上陸しました。

 

しかし、11月には、第一次世界大戦が連合国軍側の勝利で終わりました。このためアメリカ軍は撤兵しました。

 

しかし、日本軍はそのままシベリアに居残ったのです。それどころか、兵力も7万3千に増やし、ロシアと戦い続けました。

 

日本は以前からロシアの南下政策に悩まされてきました。そんな悩みの種であった「ロシアの脅威」から解放されたいと考えていたのです。

 

しかし、日本の単独行動は、アメリカからの不信を招くことになりました。また、日本国内からもシベリア出兵に対する批判に声が高まります。

 

この頃、日本国内では米騒動が全国的に展開されており、一説には70万人以上の人々が米の輸送の妨害や精米会社を襲撃していたのです。

 

国内外からの圧力を受けた日本政府は、シベリアを支配下に置くという現実離れした野望を諦め、1922年に3千余りの犠牲を払い撤兵することになりました

 

これ以降、日本は国益という名のもとにかなり無茶な行為をしていくのでした。そしてその流れが第二次世界大戦での悲劇を招くことになったのでした。

 

米騒動との関係

 

 

第一次世界大戦の流れからのシベリア出兵の最中、日本各地では米騒動が起きていました。シベリア出兵と米騒動の関係についてみていきましょう。

 

①米商人が米を買い占める

シベリア出兵で,兵士がシベリアに派遣されることになると、その分の食料が必要になります。当然、主食である米は日本から持っていくことになります。

 

そのため、日本政府が米を大量に買い集めることになります。そのことを見越した米商人は、自分がたくさんの米を持っていれば政府に高い値段で大量の米を売ることができると考えました。

 

そして、いずれもっと高く売るために今ある米を買い占め、売るのをやめてしまったのでした。

 

②米騒動が起きる

米商人が米を売り渋るようになったので、流通する米の量が減り米の値段が高騰し、人々は米が買えなくなってしまいました。

 

そして、1918年に富山県の漁師の主婦ら数十人が、米の積み出しを行っていた大町海岸の十二銀行の米倉庫前に押しかけ移出阻止を求めました。

 

これをきっかけにして,各地で群衆が米商人や大商人などをおそって騒動を起こしました。これが「米騒動」です。

 

 

シベリア出兵の語呂合わせ

 

第一次世界大戦からの流れを順番として覚えるゴロは・・・

 

「一路シベリア、米払ったか」

 

(一路=第一次世界大戦、シベリア=シベリア出兵、米=米騒動、払ったか=原敬)

 

※今回の学習では触れていませんが、米騒動の広まりの責任をとって内閣が辞職した後に民主的な政治をした総理大臣として原敬が登場します。

 

まとめ

・1914年、第一次世界大戦が始まる。1918年11月まで続く。

・第一次世界大戦で形勢不利であったロシアがロシア革命を起こしたのは1917年。

・1917年、ロシア革命を主導したのはレーニン。ロシア革命によって社会主義の政府が誕生した。

・1918年、ロシアの社会主義の広まりを恐れたイギリス、フランス、日本、アメリカは「シベリア出兵」を行った。

・1918年、シベリア出兵を受けて日本の商人が米の買い占めを行ったので「米騒動」が発生した。

・米騒動のきっかけとなったのが富山県の漁師の主婦が米の安売りなどを求める運動をおこしたことである。




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