戦後日本の政治史は55年体制によって築かれたといっても過言ではありません。

 

いったいなぜ55年体制というものができたのか、問題点はなんだったのでしょうか。

 

今回は、そんな『55年体制』の成立から崩壊までの歴史を簡単にわかりやすく解説していきます。

 

55年体制とは?

 

 

55年体制とは、1955年から38年間続いた日本の政党政治の体制です。

 

自由民主党(自民党)が与党となる一党支配が続き、野党第1党の日本社会党がこれに対立するという図式ができあがったのが1955年だったのです。

 

この55年体制は1993年の細川護熙(ほそかわもりひろ)内閣の誕生によって終わりを迎えます。

 

55年体制ができた背景

 

1955年10月、講和条約や日米安保条約への考え方の違いから左派と右派に分裂していた社会党が、再び統一するという動きがありました。

 

当時は鳩山一郎(日本民主党)内閣です。保守政党の日本民主党と自由党(総裁は緒方竹虎/おがたたけとら)は政権を争うライバルだったのですが、社会党統一の動きに危機感を持ち、合併しました。

 

今も政権の座にある「自由民主党」という党名は、「自由党」と「民主党」をくっつけたものだったんですね。この政党合併を保守合同と言います。

 

こうして巨大な保守政党・自民党と、それに対抗する社会党ができあがったわけです。

 

55年体制の特徴

①「1と1/2大政党制」

自民党は「保守」、社会党は「革新」というめざす政治の方向性の違いがありました。

 

おおざっぱに言えば、自民党は自由主義・伝統重視の右派的な政党であり、社会党は社会主義・憲法の近代的な価値を重視する左派的な政党です。

 

だから本来は「保革(保守と革新)二大政党制」となるべきところでした。

 

ところがこの55年以来、何度衆議院や参議院の選挙をしても、常に自民党が過半数以上の議席を確保し、社会党はその半分ぐらいの議員しか当選しませんでした。

(自民党と社会党以外にも日本共産党・公明党・民社党などの野党がありました)

 

こうして強い与党・自民党とその半分ぐらいの野党の社会党というの体制が、その後ずっと続いたのです。

 

55年体制は「二大政党制」ではなく、かといって「一党独裁体制」でもないので、その中間の「1と1/2大政党制」と呼ばれることもあります。

 

②55年体制のバランス

自民党はずっと政権の座についていて、この期間中は歴代の総理大臣も全部自民党の議員でした。

 

ところが、自民党は憲法を変えるために必要な2/3以上の議席を確保することはできませんでした。

 

もちろん選挙ごとにある程度議席が増えたり減ったりはするのですが、常に野党が1/3の議席はキープするのです。

 

自民党は結党して以来、憲法を変えて自主憲法を制定するというのを目標としてきました。しかし、国民はこれを許さなかったことになります。

 

政権交代は起きないけど、憲法を変えることもできないというバランスで成り立っていたのが55年体制だったのです。

 

55年体制の問題点

①中選挙区制の弊害

では、なぜこんな体制が長く続いたのでしょうか。

 

その謎を解くカギは、当時の選挙制度である中選挙区制にあります。中選挙区制というのは全国を約130ぐらいの区に分けて、1つの区で複数の候補が当選するという制度です。

 

この制度は国民の多様な意見を反映させるというメリットもありましたが、問題点もありました。

 

例えば、定数(当選者数)3人の区があるとします。いくら自民党が強くても3人全員当選は難しいので、1位は自民、2位は社会党、3位は自民、などという結果になることが多くなります。

 

これが全国で行われれば、単純計算で3分の2が自民、3分の1が社会党になるわけです。

(もちろん実際には4人以上の区がありますし、社会党が強い区もあれば、共産党などの他の党が勝つ場合もあるので単純にはいきませんが)

 

この結果、社会党は全国で過半数以上の候補を立てないようになりました。つまり、最初から政権を狙う気がなくなってしまったわけです。

 

その一方で、自民党も表向きは改憲を党の目標としていましたが、議席数が2/3に届かないので具体的な改憲への動きを見せないという時期が続きました。

 

②自民党内の疑似政権交代

ちょっと深い話になりますが、中選挙区制では同じ選挙区内で自民党の候補どうしによる戦いということがどうしても起こります。

 

自民党というのは一つの党でありながら、党内に常にライバルがいるということになるわけです。

 

最初に、そもそも自民党は日本民主党と自由党の合同によって生まれたという話をしましたが、当初から日本民主党系議員と自由党系議員になる派閥争いというのがありました。

 

それが中選挙区制によって激しくなり、自民党の中でグループを作ってお互いをけん制し合うという状況がだんだん生まれてきたのです。

 

この派閥争いが激しかったのが「三角大福中」(三木派、田中(角栄)派、大平派、福田派、中曽根派)と言われた1970年代でした。

 

田中角栄内閣が倒れると三木武夫内閣ができ、三木が下ろされると福田赳夫内閣ができる……といった具合で、自民党の派閥の間でぐるぐる政権を回すということが行われました。

 

つまり政党による政権交代は起きないのですが、派閥による疑似的な政権交代は起きていたことになります。

 

これによって国民の不満が多少は解消され、自民党の政権が長く続いた理由になっていたのです。

 

③政権のスキャンダルと政治不信の増大

しかし、ひとつの党による支配が長く続くと政権は腐敗するとよく言われます。

 

自民党も例外ではなく、これが55年体制の最大の問題点と言えるかもしれません。

 

1976年には田中角栄内閣のロッキード事件、1988年には竹下登内閣のリクルート事件といった政権を揺るがす汚職事件が起きました。そのたびに国民の政治不信は大きくなり、政治改革の必要が叫ばれるようになります。

 

1989年には第15回参議院選挙でついに自民党は過半数割れ。社会党委員長の土井たか子による「山は動いた」という名言が生まれました。

 

その後、自民党は民社党や公明党と協力し、なんとか政権を維持しました。

 

55年体制の崩壊

(細川内閣 出典:Wikipedia

①細川連立内閣の誕生

1993年8月、衆議院選挙で自民党は惨敗。ついに衆議院でも過半数を割りました。

 

自民党の有力者だった小沢一郎らが自民党を飛び出して作った新生党(しんせいとう)や、同じく自民党から分かれた新党さきがけ、そして元熊本県知事の細川護熙が作った日本新党が新党ブームによって多くの議席を獲得。

 

日本新党、新生党、新党さきがけ、日本社会党、民社党、公明党、社会民主連合、民主改革連合の7党(8会派)が連立を組み、細川護熙内閣が成立しました。

 

38年ぶりに自民党以外の内閣が誕生したのでした。

 

選挙制度も中選挙区制から、政権交代が起きやすい小選挙区比例代表並立制へと変えられました。

 

これにより、38年続いた55年体制は崩壊したのです。

 

②自社さ政権とその後

しかし、細川内閣は長くは続かず、その後継の羽田孜(はたつとむ)内閣も短命に終わりました。

 

自民党は社会党と新党さきがけと連立を組み、「自社さ連立内閣」を樹立。

 

なんと、自民党はライバルだった社会党の村山富市を首相にして政権に返り咲いたのです。

 

その後、自民党は連立の相手を変えながらも政権を維持。

 

2009年に民主党による政権交代が起きますが、2012年には再び自民党が政権を奪取しました。

 

まとめ

・55年体制とは、1955年から38年間続いた日本の政党政治の体制。

・自由民主党が政権を保持し、日本社会党が野党第1党という状況が続いた。

・政権交代は起きなかったが、自民党が改憲に必要な2/3議席を得ることもできなかった。

・二大政党制ではなく「1と1/2政党制」と言われた。

・一党支配が長く続き、政権の汚職事件が多発するという問題点があった。

・1993年、細川護熙連立内閣の誕生により、55年体制は崩壊した。




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