江戸時代前期に誕生した垂加神道。
宗教であり、学問でもある垂加神道は後の尊王攘夷という考え方に大きな影響を与えたと言われています。
今回はそんな『垂加神道』の特徴や流れなどを簡単にわかりやすく解説していきます。
目次
垂加神道とは
垂加神道とは、江戸時代前期である1611年に儒学者である山崎闇斎によって提唱された神道説のことです。
神道の考え方を発展させ、儒教の学問である朱子学や陽明学、易学を取り入れたもので、天皇への信仰、道徳心の強いものでした。
垂加神道が始まるまでのあらすじ
(山崎闇斎 出典:Wikipedia)
①儒教の考え方
山崎闇斎が始めた垂加神道というのはたくさんの学問・宗教の影響を受けています。そこでまず、その様々な学問や宗教について解説していきます。
まず儒教というのは中国で孔子という人物によって始まり、東アジアに広がった学問、信仰です。紀元前に始まっていますが2000年以上経った現在も中国を中心とする多くの国の宗教に影響を与えています。
日本に儒教が伝わったのは仏教よりも古く飛鳥時代と言われており、宗教としてではなく学問として伝わりました。日本国内で広まった儒教の教えとして礼儀を重んじ、上下関係を大切にする、つまり部下は主君への忠誠を誓うという考え方がありました。
②儒教の日本への広がり
江戸時代は儒教が全国に広がりました。これは江戸幕府が儒教を奨励し意図的に全国に広めたためと言われています。
なぜ幕府が儒教を広めたかというと、儒教の教えの中に部下は主君への忠誠を誓うとあったからでした。
それまでの日本は部下が主君を倒すことも多くあり、戦が絶えませんでした。そこで江戸幕府は儒教の教えを広めることで部下が裏切ることがないよう、教育しようとしたのです。
朱子学、陽明学、易学はいずれもこの儒教から始まった学問で、特に朱子学は日本で学ぶ人も多く、政治に強い影響を与えていました。
山崎闇斎はこれらの学問を学んだ後、垂加神道を作り上げたのです。
③神道とは
(広島県 厳島神社)
垂加神道とは儒教と神道を組み合わせたものであり、次はその神道について触れたいと思います。
神道とははるか昔から日本に伝わる宗教であり、この世に存在するありとあらゆる物に神が宿るという考え方を持っています。日本各地にある神社はこの神道の建物です。
712年に書かれた古事記や720年に書かれた日本書紀などの神話に出てくる神々を信仰し、吉田神道、忌部神道などいくつかの種類に分けられます。
仏教が伝わると神仏習合という仏教と神道の要素を合わせた考え方が広がりました。
④山崎闇斎による垂加神道の始まり
垂加神道を始めた山崎闇斎とはどういった人物だったのでしょうか。
山崎闇斎は京都の医者の家に産まれますが、あまりにも乱暴者だったため、一度は寺に入れられます。
寺の生活で仏教に触れた山崎闇斎でしたが、乱暴な性格は治らず寺を出てしまいます。しかしその後は朱子学として儒教を学び始め、25歳のころには儒学者となりました。
山崎闇斎は京都で朱子学を教え、その後江戸に出て権力のある武士にも指導を行うようになりました。また全国各地を回って神道の研究にも本格的に取り組み、儒教と神道を統合した垂加神道を開きます。
それまでは先ほど述べたように神仏習合の考え方が多かったのですが、江戸時代に入り、神道と儒教の結びつきを訴える学者が増えていたのです。
この研究の成果によって山崎闇斎は政治にも助言を行い、影響を与えるようになりました。
垂加神道の内容
①垂加とは
垂加神道の垂加とは、山崎闇斎の別名です。
垂加神道を始める前、山崎闇斎は吉川惟足という人物に神道を学んでおり、この吉川惟足にもらった名前が垂加でした。つまり垂加神道とは山崎闇斎の神道ということですね。
②垂加神道の思想
垂加神道では天照大神(あまてらすおおみかみ)と猿田彦神を最も崇拝しています。
どちらも神道で信仰され古事記や日本書紀に出てくる神様ですが、特に天照大神はすべての神々を束ねる女神で、天皇の祖先であると言われています。
また儒教の教えのひとつである「敬(つつしみ)」という考え方を特に訴えており、道徳性や上下関係を大切にしていました。
これらのことから垂加神道では神の子孫である天皇を崇拝していました。
③復古神道との違い
垂加神道とよく比較されるものとして復古神道があります。復古神道とは江戸時代後期、垂加神道よりも後に平田実篤や本居宣長によって始まりました。
江戸時代前期に誕生した垂加神道は神道と儒教を合わせたものでしたが、復古神道は仏教や儒教を取り除き、神道のみを信仰することが正しいという考え方であり、垂加神道を批判していました。
しかしどちらも神様を信仰し、その子孫である天皇を崇拝するという考え方を持っており、この考え方は後の明治維新に大きな影響を与えることになります。
垂加神道の影響
①尊王攘夷論への影響
江戸時代末期、尊王攘夷という考え方が生まれました。
尊王攘夷とは「国の王を敬う」という尊王という考え方と「外国を排除する」という攘夷という考え方が結びついたもののことで、ここで言う王とは天皇のことを指します。
江戸時代は幕府が天皇以上の権力を持ち、国の中心となっていました。しかし垂加神道には天皇こそが国の中心であるという理念があり、この理念を基にして尊王という考え方が誕生し、さらに尊王攘夷へと変化していくのです。
②江戸時代の終わり
江戸時代、日本は鎖国という政策をとり外国と貿易を行わず距離を置いていましたが、江戸時代末期になると多くの国が貿易を求めて日本に近づいてきました。
その際江戸幕府は不用意に外国船を攻撃したり、日本にとって不利な条約を結んでしまったりとたびたび失敗をしてしまいます。
幕府の力が弱くなっていたこともあり、これからの日本に不安を覚えた人々は「これからは天皇が中心になって国を動かしていくべきだ」と尊王攘夷を訴え、幕府を倒すことを決意します。
これが明治時代という新しい時代の誕生につながっていくのです。
まとめ
・垂加神道とは江戸時代前期に山崎闇斎が始めた神道のこと。
・垂加神道は神道と儒教を合わせたもの。
・垂加神道の内容は神を信仰し、天皇を崇拝するというもの。
・垂加神道の後に神道から仏教や儒教を排除した復古神道が生まれた。
・垂加神道の考え方は江戸時代末期の尊王攘夷という考え方に影響を与えた。