幕末の時代、江戸幕府の老中・安藤信正が襲撃された坂下門外の変。

 

今回はそんな『坂下門外の変』が起こった背景や原因、経過やその後など簡単にわかりやすく解説していきます。

 

坂下門外の変とは

(安藤信正 出典:Wikipedia

 

 

坂下門外の変とは、1862年(文久2213日、水戸藩浪士が中心となった6人によって、江戸幕府老中の安藤信正が江戸城の坂下門外で襲撃された事件のことをいいます。

 

安藤信正はこの事件で背中を負傷し、のちに老中を罷免されてしまいました。

 

坂下門外の変が起こった時代背景

 

 

開国派と攘夷派に国内で意見がわかれた幕末の時代、江戸幕府は開国を推し進めるために過激な尊王攘夷を弾圧するなど、強硬な姿勢をとっていました。

 

攘夷思想の弾圧「安政の大獄」

この頃、開国の考えをもつ江戸幕府と攘夷の考えをもつ藩主の間で、対立が起きていました。そこで、第13代将軍の跡継ぎを誰にするかという問題が起きます。

 

紀州藩藩主の徳川慶福を持ち上げた「南紀派」と、一橋慶喜を持ち上げた「一橋派」が対立しましたが、井伊直弼が大老に就任したことで、独断で徳川慶福が第14代将軍に就任することが決められました。

 

(井伊直弼 出典:Wikipedia)

 

 

そして、井伊直弼はアメリカと「日米修好通商条約」を調印します。

 

 

この条約は、天皇の勅許を得ずに調印されたものだったので、天皇や開国に反対する攘夷派から大批判を受けました。

 

将軍跡継ぎ問題で対立した一橋派も尊王攘夷派に転じたり、朝廷内でも幕府を支持する派と尊王攘夷派に対立したりするなど、開国派と攘夷派で国論がわかれました。

 

こうした状況を、井伊直弼は幕府の危機だと感じました。

 

そこで、幕府に反対する公卿や大名、役人を辞めさせ、攘夷の思想をもつ志士などを検挙・処罰した弾圧しました。

 

この事件を、1858年(安政5「安政の大獄」といいます。

 

 

②攘夷派浪士による襲撃事件「桜田門外の変」

安政の大獄から2年後の1860年(安政7324日、井伊直弼は江戸城の桜田門外で攘夷派浪士に襲撃され、命を落としました。この事件を「桜田門外の変」といいます。

 

井伊直弼を襲撃したのは、多くが水戸藩の脱藩浪士でした。

 

この桜田門外の変で、井伊直弼が推し進めていた独断的な政治体制は成立しなくなりました。

 

また、脱藩浪士がしたこととはいえ、井伊家当主を水戸藩士が暗殺したので、徳川御三家のひとつである水戸徳川家と譜代大名筆頭の井伊家の仲が悪くなってしまい、対立するようになってしまいます。

 

開国政策を進めるために、厳しい弾圧を強いた大老が暗殺されたということで、江戸幕府の権威も大きく失ってしまいましたが、残された老中・安藤信正は、井伊直弼の政策を引き継ぐことになりました。

 

 

坂下門外の変の原因

 

 

井伊直弼につづき、老中の安藤信正までも襲撃された坂下門外の変ですが、この事件の原因とは一体何だったのでしょう。

 

①公武合体

桜田門外の変もあり、幕府の力が弱まった一方で、井伊直弼の後を継ぐ老中の安藤信正は、井伊直弼の開国政策を引き継ぐことになりました。

 

しかし、幕府への反発と尊王攘夷運動が激しくなるなかで、幕府の権威は確実に落ちていました。

 

この状況を打開するために、安藤信正は、同じく老中の久世広周とともに「公武合体」という政策を進めることにしました。

 

公武合体とは、条約の調印などで分裂してしまった朝廷と幕府の関係を修復し「幕府の意見=朝廷の意見」とすることで、幕府の権威を回復しようとする政策のことです。

 

公武合体の「公」とは公家(朝廷)を指し、「武」は武家(幕府)のことを指します。

 

 

②和宮の降嫁

安藤信正は、公武合体の政策として孝明天皇の妹にあたる和宮を、江戸幕府第14代将軍の徳川家茂の正室に迎えさせることを決めました。

 

Kazunomiya.jpg

(和宮 親子内親王 出典:Wikipedia)

 

 

安藤信正らは天皇の妹を降嫁させることで、幕府と朝廷の関係はより深くなるよう企てましたが、この降嫁が逆に尊王攘夷の志士たちの反発を招いてしまいます。

 

公武合体に基づいた和宮の降嫁を進めた安藤信正に激しく怒りを覚えた尊王攘夷派の志士たちは、井伊直弼につづいて、安藤信正の暗殺計画を企てることになりました。

 

坂下門外の変の発生と経過

 

 

安藤信正を暗殺する計画をたてたのは、桜田門外の変と同じく、尊王攘夷派の水戸藩浪士が多くを占めていました。

 

①集まった水戸藩士たち

公武合体政策で、和宮の降嫁を進めた老中・安藤信正を暗殺すべく、桜田門外の変と同じく水戸藩を脱藩した浪士が集まりました。

 

また、宇都宮藩の儒学者・大橋訥庵など、下野国(現在の栃木県)の志士たちも計画に参加します。

 

大橋訥庵は黒船来航以来、尊王攘夷を唱えていた儒学者でした。

 

安藤信正による和宮の降嫁をきっかけに、倒幕を企てるようになり、この大橋訥庵が安藤信正暗殺計画の中心を担いました。

 

「老中の安藤信正の政治はとてもひどいもので、このままでは日本は滅んでしまう。だから安藤信正を斬殺する。幕府は攘夷を行うべきだ」という「斬奸(ざんかん)趣意書」という文書も執筆しました。

 

②襲撃

1862年(文久2)2月13日の午前8時頃、藩邸を出て江戸城の坂下門外に差し掛かった安藤信正の行列を水戸藩浪士を中心とした6名が襲撃します。

 

安藤信正は背中に傷を負いましたが、なんとか江戸城内に逃げ込み、助かりました。

 

桜田門外の変から大名らの警備は厳重になっていたので、水戸藩浪士らは暗殺を成功することはできず警護側と戦い、戦死しました。

 

坂下門外の変のその後

 

 

命からがら逃げることができた安藤信正でしたが、やはり武家社会。「背中の傷は武士の恥」と捉えられてしまったようです。

 

①罷免された安藤信正

襲撃を受け、背中に傷を受けた安藤信正でしたが、直後に包帯姿でイギリスの公使ラザフォード・オールコックと会見したという記録が残されています。

 

オールコックは「負傷しながらも幕府の仕事を続けるなんて、なんて立派な政治家なんだ!」と感心したといいます。

 

しかし、一部の幕閣からは「背中に傷を受けるなど、武士の風上にも置けん!」と批判されてしまい、その後老中を罷免されてしまいました。

 

安藤信正は、桜田門外の変で崩れかけた幕政の立て直しに力を尽くした優秀な人材でした。しかし、背中に傷を負ってしまったことで、幕府はまた一人優秀な人材を失うことになりました。

 

②衰退していく江戸幕府

結果的には安藤信正の暗殺は失敗に終わりましたが、たて続けに2度も幕閣が襲撃され、幕府の権威はさらに落ちていってしまいました。

 

その後、江戸幕府は衰退していき、薩摩藩や長州藩などの倒幕派の動きを抑えるためにも、1867年(慶応311月、大政奉還を行いました。

 

 

まとめ

・1862年(文久2)2月13日、水戸藩浪士らによって、江戸幕府老中の安藤信正が江戸城坂下門外で襲撃された事件を「坂下門外の変」という。

・井伊直弼による安政の大獄によって、井伊直弼は桜田門外の変で襲撃され、その後を安藤信正が引き継ぐことになった。

・安藤信正は公武合体の政策のひとつとして、孝明天皇の妹和宮を降嫁させた。

・和宮の降嫁に怒った尊王攘夷派の水戸藩浪士や宇都宮藩の大橋訥庵らは、安藤信正の暗殺計画を企てた。

・安藤信正は坂下門外の変で襲撃を受けたが、背中に軽傷を負う程度だった。

・背中に傷を負った安藤信正は武士の恥とされ、老中を罷免されてしまった。

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