江戸時代の日本は「士農工商」の身分制度でした。

 

これは、小学校で習う基本知識の一つですよね。では、旧武士(士族)の人口はどのくらいか知っていますか?

 

実は、人口のわずか6%弱にすぎませんでした。ところが、その士族たちに支払われていた給料は国の支出の30%を占めていたのです。

 

近代化のためにお金が必要な政府は、士族たちのリストラを考え始めました。

 

今回は、明治新政府が士族に出した『秩禄処分(ちつろくしょぶん)』について、目的や内容・結果などを簡単にわかりやすく解説していきます。

 

秩禄処分とは

 

秩禄処分とは、明治新政府が士族などに支払われていた『秩禄』を廃止するためにとった一連の政策のことをさします。

 

『秩禄』とは、武士が主君からもらっていた給与のことです。

 

この秩禄は、家ごとに与えられたお金(家禄)と戊辰戦争などの功績で与えられたお金(賞典禄"しょうてんろく")の2つに分けることができ、士族はこれらを受け取っていました。

 

また、旧幕臣は徳川家から、諸藩の藩士は藩主から米で受け取っていました。

 

秩禄処分の目的・理由

 

 

秩禄処分の最大の目的は、政府にとって大きな負担となっていた武士に払う給与を削減することでした。

 

1877年(西南戦争が起こった年)の支出の30%が秩禄。これは、この年の軍事費である19%を上回る大きな支出でした。

 

しかし、一気に秩禄を無くすると士族たちが反発する可能性が高く、政府は慎重にことを進めていきました。

 

秩禄処分の内容

秩禄奉還の法

1873年、政府は秩禄奉還を希望するものに半分は現金で、残り半分は公債で支払う内容の布告です。公債は政府の借金の証書のことです。

 

利子率8%で、7年間で支払う内容でした。

 

言い換えれば「永久に秩禄は払えない。希望者には秩禄の数年分を公債と現金で支払う。早く応じた人は良い条件にしてあげますよ」と考えるとよいでしょう。今風に言う早期退職の勧めといったところでしょうか。

 

これによって、家禄の3分の1の削減に成功しました。

 

②秩禄の石高表示廃止

政府は今まで石高で表示されていた秩禄を、金額での表示に変えます。

 

③金禄公債証書発行条例

華族・士族の秩禄支給を廃止し、かわって金禄公債証書を交付しました。

 

狭い意味ではこのことを秩禄処分といいます。これは、さきほどの秩禄奉還の法とは違って強制的に発行されました。

 

つまり、「もう、毎年秩禄は払わないよ。その代わりに数年分の秩禄を公債としてみんなに書類をあげる。支払期限までは利子を払うよ。30年以内に全員分の支払いを終えるよ」という内容です。

 

これで政府は毎年の秩禄支払いをしなくて済むようになりました。

 

秩禄処分で士族はどうなったの?

 

 

秩禄処分は、金額が低い下級士族ほど利子率が高い設定でした。

 

しかし、利子率が高くてももともとの金額が低いため金禄公債証書だけでは生活できません。

 

おまけに、いつ自分が支払ってもらえるか(償還期限)は抽選で決められていたので、まとまったお金がいつ入るかわかりませんでした。

 

そのため、多くの士族は額面よりも安く売り払って現金化しました

 

どういうことかというと、額面100円の金禄公債証書を50円でいいからといって商人などに売ってしまい、現金を得たということです。

 

ちなみに、下級士族の金禄公債証書の利子だけだと、1年の生活費の3分の1弱しか賄えませんでした。

 

秩禄処分の結果

士族の商法

秩禄を失ったことで士族たちは新たに仕事を探さなければなりませんでした。

 

農業や商工業に転職した士族たちの中にはなれない商売で失敗するものが少なくありませんでした。

 

②相次ぐ士族反乱

このころ、士族たちは苦しい状況にありました。

 

秩禄処分により経済的に苦しかっただけではなく、廃刀令で武士の魂ともいうべき刀を持つことを禁じられます。

 

江戸270年間、支配者として君臨してきた士族が一気に没落したのです。

 

彼らの怒りは新政府に向けられました。特に、戊辰戦争で活躍した西南諸藩で士族反乱が相次ぎました。

 

佐賀県では江藤新平らが佐賀の乱をおこし、同じ九州で秋月の乱・敬神党(神風連)の乱、かつての長州藩である山口県で萩の乱がおきました。

 

そして極めつけは西郷隆盛ら薩摩士族による西南戦争です。しかし、いずれも鎮圧されました。

 

 

③自由民権運動の盛り上がり

板垣退助らは言論によって政府と戦う自由民権運動を盛り上げました。

 

 

国会を開き、政府と言論で戦おうというのです。その中心にいたのも士族たちでした。

 

政府の対策『士族授産』

 

士族授産とは、明治新政府が旧士族に対して行った生活救済の施策のことです。以下のような施策を行いました。

 

①事業資金の貸し付け

士族たちが事業を起こすときに政府が資金を貸し付けました。

 

②北海道開拓の実施

1869年、蝦夷地に開拓使が置かれ北海道と改名しました。

 

政府が北海道開拓に力を入れた理由は、ロシアの侵入を防ぐためでした。

 

江戸時代にもロシアはたびたび北海道付近に来航し、松前藩などとトラブルを起こしていました。そのため、普段は開墾しながらも、いざとなった戦う屯田兵を置こうと考えました。

 

士族たちは、まさにその任務にぴったりだと考えられたのです。

 

 

③安積疏水(あさかそすい)を開く

士族授産を目的として、内務卿の大久保利通は福島県安積地方開発のための灌漑用水路を建設させました。

 

猪苗代湖から阿武隈川までを潤すもので3万ヘクタールの田畑に水を供給しました。

 

④国立銀行の設立

1872年に設立が始まった国立銀行は規制緩和でどんどん数が増えました。

 

銀行設立資金となったのが金禄公債です。国立銀行は153行まで増えました。

 

 

まとめ

・秩禄の支払いは明治政府にとって大きな負担だった。

・秩禄処分の最大の目的は、士族たちをリストラし支出を減らすことだった。

・秩禄奉還のほうは、希望者限定。

・秩禄処分と金禄公債証書の発行は強制。

・下級士族の多くが利子だけで生活できず、金禄公債証書を売り払ってしまった。

・新たな仕事を探した士族は「士族の商法」で失敗することも多かった。

・士族の怒りは爆発し、西南諸藩を中心に士族反乱がおきた。

・反乱を起こさなかった士族たちは板垣らを中心に自由民権運動を行った。

・政府は士族授産の一環として屯田兵の設置や安積疏水を開くなどして士族に仕事を与えた。




コメントを残す

CAPTCHA


関連キーワード