さまざまな近代化政策を行い、日本を導いてきた明治新政府。

 

しかし、この頃は今のように民主主義にのっとって選ばれた人が政治を行っておらず、明治維新の功労者が中心となって政治をしていました。

 

今回はそんな政治の仕組みである『藩閥政治(はんばつせいじ)』について簡単にわかりやすく解説していきます。

 

藩閥政治の意味とは?

 

 

藩閥政治とは明治時代の頃に薩摩藩・長州藩の人物中心に政治が行われていたことを言います。

 

この政治の動きは大正デモクラシーに入る時まで続けられました。

 

なぜ藩閥政治になったのか?

幕末に入り幕府の権威がどんどんなくなると幕府の代わりに薩摩藩と長州藩が薩長同盟を結んで倒幕へと動き始め、ついには1868年には王政復古の大号令を発令して朝廷中心の政治体制へと変わり明治新政府が誕生しました。

 

 

さてこうして明治時代に入っていきましたが、この時政治の実権を握ったのは朝廷ではなく、倒幕の主導的立場であった長州藩・薩摩藩・土佐藩・肥前藩(薩長土肥)でした。

 

明治新政府はこの4藩出身の実力者で動かされていくことになるのです。

 

なんでこうなったのかというとやはりこの時の日本の実情がこの体制にせざるおえなくしたのだと思います。

 

明治時代の日本は鎖国から解き放たれ、西洋に追いつこうと模索していた時代でもありました。

 

そんな時にいきなり民主主義を取り入れたら改革がなんにも進まなくなり、日本は列強の植民地になる可能性が非常に高くなってしまいます。

 

幕府を打倒した有力者たちはそのことを重々理解していたので、明治新政府は薩長土肥の人たちで政治をやっていこうとなっていったのです。

 

藩閥政治の動き

 

 

藩閥政治は最初の方は薩長土肥で動かしていましたが、最終的には長州藩の独走となっていきます。なんでそうなったのかを年を追って見てみましょう。

 

①新政府誕生から明治六年の政変まで

新政府が誕生して新しい政治がスタートすることになるとまず太政官制という今の内閣みたいなものを作ります。

 

 

この太政官制のトップ格に当たる役職を薩長土肥が独占してしまったことから藩閥政治がスタートします。

 

しかし、そんな薩長土肥の体制がスタートした矢先にとあるトラブルが・・・。

 

実は1873年に明治六年の政変という征韓論派と内実派の対立が起きてしまい、薩摩藩の西郷隆盛、肥前藩の江藤新平、土佐藩の板垣退助が政府を辞めてきまいます。

 

さらにはその江藤新平が佐賀の乱という士族たちの反乱の主導者となったことによって肥前藩はこれ以降勢いをなくしてしまいます。

 

 

また、土佐藩も板垣退助が政府を辞めたことによって勢いを無くし、土佐藩はこれ以降自由民権運動という藩閥政治を真っ向から反対する運動の主導的立場にシフトチェンジをしていくことになるのです。

 

②紀尾井坂の変から内閣制度誕生まで

こうして薩摩藩と長州藩の二藩が主導となった政府。

 

しかし、その後西南戦争で薩摩藩の代表的な有力者であった西郷隆盛が戦死。さらに紀尾井坂の変で同じく有力者である大久保利通が暗殺される事件が起こり、薩摩藩の勢いも無くなってしまいます。

 

 

こうなると嬉しいのが長州藩。これ以降政府は伊藤博文や山縣有朋などの長州藩中心の人物が政治を動かしていくことになります。

 

でも、これに納得いかないのが国民の皆さん。政府の人たちだって好きでこんなことをしているのではなかったのですが、国民たちはやはり一握りの人が政治を動かすことはやっぱりダメだと思い始め、自由民権運動が全国で巻き起こります。

 

これを主導したのが上にも書いた通り元政府関係者の土佐藩出身の人である板垣退助でした。

 

板垣退助はなんだかんだで度々政府に復職するも、最終的には自由党を作り自由民権運動を指揮していました。

 

一方で1881年には肥前藩出身の大隈重信が官有物払い下げ事件をきっかけにクビに追い込まれる事件が起き(明治十四年の政変)、その後大隈重信の立憲改進党を設立して運動に参加しました。

 

 

しかし、この頃になると当時の政府の有力者であった伊藤博文は国会を設立しなければいけないと思い始め、国会開設の詔を発布してその9年後に国会が開設。さらに内閣制度も確立しました。

 

 

しかし、これがこれから先民権派と藩閥とのバトルへとつながっていくことになりました。

 

③初期議会と内閣

 

 

こうして内閣制度が確立した日本。

 

しかし、最初の頃の内閣は・・・

✔ 初代・5代・7代 ・10代:伊藤博文(長州藩)

✔ 2代:黒田清隆(薩摩藩)

✔ 3代・9代:山縣有朋(長州藩)

✔ 4代・6代:松方正義(薩摩藩)

 

唯一7代は大隈重信で日本で最初の政党内閣だったのですが、その他は見事に長州と薩摩が独占していることがわかります。

 

長州藩や薩摩藩からしてみたら「国会は開かれたけど政治の実権はこれからも藩閥の人たちが握ります」と思っていたに違いありません。

 

しかし、その一方で議会の方は自由党と立憲改進党が存在していましたから藩閥派の政党である吏党はあるものの、民権派の方が有利でした。

 

こうなると起こってしまうのが国会と内閣との対立。

 

特に好き勝手やりたい藩閥は超然主義という「内閣は国会の影響を受けません」という「じゃあなんで国会作ったんや」と言いたくなるようなことを言ったり・・・

 

 

樺山資紀という薩摩出身の人が蛮勇演説という「誰のおかげで明治維新が成し得たと思ってるんだ!薩長のおかげだろ薩長の!このボケナスが!わかったらさっさと軍事予算を認めやがれ!」と発言したことによって国会は大混乱。

 

 

挙げ句の果てには衆議院は解散してしまいます。

 

こうして選挙になるのですが、内閣はさらに民権派の勢いを無くすために選挙干渉まで行ってしまいます。

 

だがしかし、この選挙は民権派の勝利。どうにも行かなくなった内閣と議会との対立は最終的には明治天皇が建艦勅書を出してことなきを得ました。

 

さらに日清戦争と日露戦争が起こると民権派と藩閥が手を取り合うようになり、最終的には藩閥と民権派が協力する体制が確立しました。

 

大正デモクラシーと藩閥政治の終わり

 

 

時代は下り1912年。大正時代に差し掛かった頃に藩閥政治が終わりを迎えます。

 

この頃の首相は桂太郎という長州の人でしたが、この時に衆議院議員であった尾崎行雄と犬養毅らを中心とした憲政党の人たちが国会で首相を批判し「打破閥族・擁護憲政」をスローガンとした第一次護憲運動が展開されます。

 

この護憲運動によって桂内閣は総辞職。

 

その後山本権兵衛が首相になりますが、もはや藩閥だけで政治をすることは不可能となり、これから先日本は藩閥政治ではなく、政党の人たちを中心とした政党政治へと変わっていくことになるのです。

 

まとめ

✔ 藩閥政治は明治時代に行われていた明治維新の功労者の人が中心に政治が行われていたこと。

✔ 最初の頃は薩摩藩・長州藩・土佐藩・肥前藩が中心だったものの、明治六年の政変や明治十四年の政変が起こるに連れて薩摩藩と長州藩が権力を握るようになった。

✔ 藩閥政治が行われていた頃の議会は内閣と議会の間で衝突が起こっていた。

✔ 藩閥政治は大正デモクラシーの時に起こった第一次護憲運動によって桂太郎内閣が総辞職すると崩壊し、日本は政党政治へと移っていった。




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