【江戸三大大火とは】わかりやすく解説!!明暦&明和&文化の大火について!

 

皆さんのお家はちゃんと火事対策はしていますか?

 

今の時代だったら火災報知器や消火器などの火災用のグッズや設備が整っているため、そう簡単に大火事は起きませんが油断はなりません。

 

さて、江戸時代の頃江戸は世界でも類を見ないほどの火事が頻発する都市でありました。

 

今回は、江戸で火事か頻発した理由や、江戸で起こった火事の中でも特に規模がでかい『江戸三大大火』という3つの大火事についてわかりやすく解説していきます。

 

江戸三大大火とは

(明暦の大火『江戸火事図巻』 出典:Wikipedia

 

 

江戸三大大火とは、火事の多かった江戸の中でも特に大被害を出した火事3つ『明暦の大火』『明和の大火』『文化の大火』のことを指します。

 

この火事によって後の世につながる対策などが生まれてきます。

 

江戸の火事事情

①江戸ってどれぐらい火事が多かったの?

江戸は世界の中でも一二を争うほど火事が多い都市でした。

 

江戸という町はしょっちゅう些細な火事が起こって被害を出しており、さらには江戸三大大火ほどではないものの、江戸の町を焼き払うレベルの火事は3年に1回をめどに起こっていました。

 

それでも江戸の人たちは『火事と喧嘩は江戸の華』といって江戸は火消し組(消防隊)の喧嘩を楽しそうに見ていました。

 

②江戸が火事が多い理由

 

 

江戸で火事が多かった理由は沢山あります。

 

まず知っていただきたいのが、当時江戸時代の家はほとんどと言っていいほどの木造建築でした。

 

そりゃ木なんで直ぐに火は燃え広がります。

 

さらに、当時江戸の人口は最盛期で100万を越す大都市。(パリで50万、ロンドンで80万)

 

さらにこの当時家は全て長屋といって一階建ての家が長く連なっている様な状態でした。

 

そのため住宅の密集度が凄まじく、火が風で直ぐに燃え移ってしまいすぐさま大火事につながっていました。

 

③火事の対処の仕方

江戸時代の火事の対処は、今みたいに水や消火器を使って火を消すみたいな方法ではなく、火が燃え移らない様にして自然に火を消すという方法を取っていました。

 

しかし、その移らないようにする方法がすごく乱暴で、なんと火事があった隣の家をぶっ潰すということをやっていました。

 

火事が起こった隣の家の人からしてみたら大迷惑だが鎮火する方法がこれしかないため仕方ない。

 

ちなみに、今の消防署の地図記号はその家をぶっ壊す道具であるさすまたというもので、今でもこの様な形で名残が残っています。

 

④幕府の火事対策

(江戸の広小路 画像引用元

 

 

幕府は江戸があまりにも火事か多いことを受けて、さまざまな対策を打って火事に備えていました。

 

幕府はまず上野や浅草など出火がしばしば起こっていた地域に広い道を作って長屋の間を開けて火が燃え移りにくくするようにします。これを広小路と言います。

 

今でも地名で上野広小路なんて名前がありますが、それはこの江戸時代に作られた名残です。

 

さらに消防組織である火消し組をいろは組という47組にわけて制度化し、さらに木などの火などの燃えやすい素材で家を作るのではなく、瓦葺や土蔵造りなどの燃えづらい素材で家を作るようにしていました。

 

江戸三大大火について

(明暦の大火当時の浅草門 出典:Wikipedia

①明暦の大火

最初にご紹介するのは1653年に起きた明暦の大火ですが、最初に言っておくとこれが一番最強です。

 

実はこの明暦の大火。被害地域は江戸の4分の3死者は10万人とも言われているというもはや火事ではなく災害レベルというおぞましい規模の火事でした。

 

なんでそんなとんでも無いことになったのかというと、実はこの時江戸では敵が攻めずらくなるように橋があまりなかったのです。

 

特に隅田川には千住大橋しかかかっておらず、この橋が閉鎖された瞬間に船でしか逃げれなくなってしまいます。

 

つまりは逃げ道が少なく人が避難しづらかったのです。

 

さらに不幸なことに牢屋に入れられた犯罪者が逃げたという情報が流れて、ただでさえ少なかった逃げ場所が閉ざされてしまいました。

 

そのため人々は逃げることが出来ず火の餌食となりどんどん死んでいきました。

 

このため、この火事以降幕府は橋をかけまくって避難場所を作るなど対策をとるようになりました。

 

この明暦の大火の原因はいろいろあり、特に有名なのは本妙寺という寺からの出火という説でいわゆる明暦の大火の異名の一つである振袖火事の元となったやつです。

 

この話を簡単に説明すると『とある振袖を持っていた人がバタバタ病気で倒れて亡くなっていたので怨霊がいると思った本妙寺の住職が振袖を燃やして供養した時に炎が風によって家に燃え移り火事となった』という感じです。

 

そうなると振袖の怨霊は最後の最後でどでかいことをやったということになりますね。怨霊恐るべし。

 

ちなみにこの時、江戸城の天守が焼失しています。

 

今江戸城(皇居)には天守はありませんが、実は江戸時代の初期にはもう天守は存在していなかったのです。

 

②明和の大火

次に紹介する火事は明和の大火。

 

この火事は明暦の大火から約120年後である1772年に起きました。

 

この火事は幕府の火事対策が見事に活用され、明暦の大火ほどの被害は出しませんでしたが、それでも江戸の3分の1を焼き死者数約1万4000人行方不明者数は約4000人という被害を出しました。

 

しかし、この火事のとんでもないところは火事か起きた理由。

 

実はこの火事はとあるお坊さんが盗みを働くために寺の蔵に火をつけたという身勝手極まりない理由で起きたものだったのです。

 

幕府は火事を起こした犯人であるこのお坊さんを捕らえて市中引き回しの上火刑に処しました。

 

当時幕府の放火犯は決まって火刑となることが多く、『目には目を、歯には歯を』スタイルを幕府がとっていたということが感じられます。

 

ちなみにこの火事は出火元から目黒行人坂の火事とも言われています。

 

③文化の大火

文化の大火は1806年に起きた火事のことです。

 

この火事は芝(東京都港区)から出火して風によって京橋・日本橋、上野方面を焼き払い1200人の死者を出す大火事となりました。

 

この火事は別名丙寅火事や車町火事とも言われています。

 

まとめ

・江戸の町は長屋が密集していたり、家のほとんどが木造建築だったため火事の被害が多く、さらに火事の規模がでかかった。

・江戸三大大火は明暦の大火、明和の大火、文化の大火。