遣隋使(けんずいし)、小野妹子(おののいもこ)……などといった用語は暗記していても、実際にどういった意義があったものなのかは意外と知らないのではないでしょうか。

 

今回は、『遣隋使』の背景、目的からその結果まで、順を追って簡単にわかりやすく解説していきます。

 

遣隋使とは

(隋の領域 出典:Wikipedia

 

 

遣隋使とは、大和朝廷がに派遣した使節のことです。

 

隋は581~619年に中国にあった王朝で、当時の東アジアにおいて強い勢力を保持していました。

 

遣隋使が派遣されたのは推古天皇の時代で、計4回実施されたと記録されています。

 

遣隋使が派遣された背景と目的

(推古天皇 出典:Wikipedia)

①国際情勢の緊張

倭国と中国の外交は、倭の五王のころ(5世紀)には行われていましたが、長い間途絶えていました。

 

しかし推古天皇の時代、大和朝廷は新羅への遠征を計画します。その第1回の遠征が行われたのが600年。

 

これは第1次遣隋使の派遣と同じ年になります。つまり新羅と戦うにあたって、強大な隋を味方にしておこうという思惑があったわけです。

 

②隋と朝鮮半島の状況

一方、隋も朝鮮半島北部で勢力を伸ばしていた高句麗と対立していました。

 

当時の朝鮮半島は、北部の高句麗、南部の新羅、百済と主に3つの国が乱立。倭国と関係が深かった百済は新羅と対立していました。

 

遣隋使の背景にはこんな緊迫した国際情勢があったのです。

 

遣隋使の派遣

(遣隋使派遣 画像引用元

①第1次遣隋使

隋の歴史を記録した『隋書』によれば、600年に倭国が隋の文帝(ぶんてい)に使者を送ったとあります。

 

(隋の文帝 出典:Wikipedia

 

 

しかし、文帝が倭国の風習について質問すると、「倭王は天を以て兄と為し、日を以て弟と為す」と答えました。

 

この答えに文帝は納得できず、倭国の制度は道理に合わないから改めるべきだとお説教されてしまいます。

 

これには当時の倭国の政権を握っていた蘇我馬子厩戸王(聖徳太子)もがっかりしたことでしょう。この第1次遣隋使は『日本書紀』などの日本側の史料には全く書かれていません。

 

なお、この時の倭国の大王は「姓は阿毎(あめ)、字(あざな)は多利思比孤(たりしひこ)」だと『隋書』には書かれています。

 

このアメタリシヒコという大王がだれを指すのかは諸説あって、はっきりしたことはわかっていません。

 

②第2次遣隋使

第2次遣隋使は607年に派遣されました。

 

この間、倭国では「十七条の憲法」や「冠位十二階」といった中国風の制度を作っています。前回の反省を生かして、隋の皇帝にも理解してもらえるような国の制度を整えたのです。

 

この第2次遣隋使で派遣されたのが小野妹子(おののいもこ)でした。ちなみに、「妹子」という名前ですが男性です。

 

小野妹子は大王(天皇)の国書を持って隋の煬帝(ようだい)と対面します。

 

(隋の煬帝 出典:Wikipedia

 

 

「日出ずる処(ところ)の天子、書を日没する処の天子に致す、恙(つつが)無きや云々」と国書には書かれていました。

 

つまり、倭国の大王を「日が昇るところの天子」、隋の皇帝を「日が落ちるところの天子」と言ったのです。

(「日が昇るところ」という表現は日本が東側にあるという方角を表しただけで、深い意味はないようです)

 

これに煬帝は激怒しました。

 

問題は倭国の大王が隋の皇帝と同格の「天子」だと表現したことです。当時、中国と外交する周辺の国は、中国の臣下になるという体制になっていました(これを冊封体制/さくほうたいせいと言います)。倭国はこの体制から離脱するというのです。

 

煬帝は「無礼者、二度とこんなものを見せるな」と大変な怒りっぷりです。

 

小野妹子は煬帝からの返書を持って帰国しますが、途中でこの返書をなくしてしまいました。そんな命より大事な書をなくすことなんてあるのでしょうか。

 

実は隋が倭国を下に見るようなことが書かれていたので、これを持っていったら怒られるのではないかと思い、なくしてしまったことにしたのではないかと言われています。

 

小野妹子は流刑を言い渡されそうになりますが、隋への渡航という功績によって許されました。

 

しかし、煬帝は裴世清(はいせいせい)を使者として帰国する小野妹子に同行させました。隋も高句麗と戦っているので、倭国を敵に回すのは得策ではないと考えたのでしょう。

 

結局、隋との正式な外交を結ぶことに成功しました。

 

③第3次遣隋使

第3次遣隋使は、翌608年に派遣されました。

 

隋から来た裴世清が帰国するため、また小野妹子が隋まで同行して返書を届けたのです。

 

この時は留学生として高向玄理(たかむくのくろまろ)、南淵請安(みなぶちのしょうあん)らも同行。仏教を学ぶために学問僧として僧旻(そうみん)らも同行しています。

 

彼らは20年以上も中国で学問や仏教を学び、帰国して学問の振興や政治改革に貢献しています。

 

④最後の遣隋使

614年、犬上御田鍬(いぬがみのみたすき)らが派遣されました。

 

これが遣隋使としては最後の派遣になります。

 

遣隋使の影響とその後

①隋の滅亡

煬帝は高句麗遠征を3度行いましたが、高句麗の頑強な抵抗によって失敗。煬帝の独裁政治も反発をまねき、各地で反乱が起きて国内は混乱に陥ります。

 

618年、煬帝の部下が反乱を起こし、ついに煬帝は殺害されました。たった2代38年間で隋は滅亡してしまいます。

 

その後、619年に李淵(りえん)がを建国。中国の歴史上でも有数の大帝国を築き上げました。

 

②遣唐使の派遣

隋の滅亡後も中国との交流が途絶えたわけではありません。

 

630年、また犬上御田鍬が唐に渡り、遣唐使がスタートします。

 

遣唐使は遣隋使を継承して、中断する時期はあったものの9世紀まで長く続けられることになります。

 

③新羅遠征の失敗

さて、遣隋使の狙いであった新羅遠征ですが、結局うまくいかないまま終わりました。

 

倭国と関係が深かった百済は、660年に新羅と唐の連合軍によって滅亡。663年に中大兄皇子は百済の復興を狙って新羅・唐と戦いを仕掛けますが、白村江の戦いで敗れてしまいます。

 

その結果、倭国は朝鮮半島での権益を完全に失うことになりました。

 

④律令国家の建設に貢献

高向玄理や僧旻ら遣隋使の留学生・学問僧は20年以上も中国に滞在し、隋の滅亡と唐の建国を見届けて帰国しました。

 

大化改新のあと、ふたりは国博士(くにのはかせ)に任命され、政権のブレーンとして大いに活躍します。

 

その後、唐の制度をまねた律令国家を作り上げていくにあたって、彼らが得た知識は重大な役割を果たしました。

 

当時、中国大陸へ渡るというのはいまでは想像できないほどの大事業だったことでしょう。

 

遣隋使の結果、隋から先進的な知識を吸収することができ、のちの律令国家建設の基礎となったのです。

 

まとめ

・遣隋使は推古天皇の時代に大和朝廷が隋に派遣した使節。

・遣隋使の目的は、朝鮮半島での権益確保のために隋との外交を結ぶこと。

・第1次遣隋使は失敗に終わった。

・第2次遣隋使は小野妹子を派遣、煬帝を怒らせたが外交を結ぶことに成功した。

・第3次遣隋使は高向玄理や僧旻らのちの律令国家建設に尽力する留学生・学問僧が同行。

・第4次遣隋使は犬上御田鍬が派遣された。

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