【生野の変とは】わかりやすく解説!!事件が起こった背景や経過・その後の影響など

 

時は幕末・・・。

 

現在の兵庫県生野町で、尊皇攘夷派が挙兵した事件『生野(いくの)の変』が起こりました。

 

今回は、この生野の変が起きた背景・事件内容・その後についてわかりやすく解説していきます。

 

生野の変とは?

(生野銀山 出典:Wikipedia

 

 

生野の変とは、186310月に但馬国生野(兵庫県生野町)で尊皇攘夷派である平野国臣、北垣晋太郎天誅組の変呼応して挙兵した事件です。

 

この事件はすぐに終結しますが、明治維新の導火線になったと言われています。

 

生野の変が起きた背景

①尊王攘夷運動の激化

井伊直弼が諸外国と朝廷の許可なく条約を結んだ為、天皇を敬い、外国を排除する尊王攘夷思想が志士の中で拡大します。

 

 

長州藩は穏健攘夷派が失脚した後、破約攘夷派(武力的解決をもってでも不平等条約の破棄を要求する主張)が台頭します。

 

1863年には長州藩の攘夷は更に激化し、天誅による暗殺が横行。朝廷へ裏工作も行い、三条実美澤宣嘉等の過激派を増やします。

 

813日に彼らは国論を攘夷に一致させる為、大和行幸の詔を発令させます。

 

これは孝明天皇が大和の神武天皇陵、春日大社、伊勢神宮まで行幸するという宣言です。

 

孝明天皇は熱心な攘夷主義者ですが、過激派の横暴を快く思わず、攘夷は幕府や諸藩が行うべきと考えていました。

 

孝明天皇の気持ちは知らぬまま、土佐藩脱藩浪士の吉田寅次郎は公卿の中山忠光を首領にし、脱藩士と天誅組814日に結成。

 

817日には五條(奈良県五條市)に到着。五条天領を天皇の直轄地と定めます(天誅組の変)

 

 

同日、過激派の三条実美はこの行動を時期尚早と判断。説得の為に平野国臣を五條に派遣します。

 

 

(平野国臣 出典:Wikipedia)

 

②平野国臣について

彼はキャラの強い人でした。福岡藩の足軽として生まれ、21歳の時に尚古主義(古い時代の習慣を重んじる)に傾倒

 

鳥帽子を被り、平安時代の武士のコスプレをして全国を遊説しました。

 

平安時代の犬追物の復活を藩主に願い出ています。その服装思想は全国に知れ渡り、各藩の重要人物と関わります。

 

安政の大獄でも処罰対象でしたが逃げ切り、桜田門外の変の寺田屋事件の計画にも関与。危険と見た福岡藩が彼を投獄し3月に釈放されたばかりでした。

 

何故こんな急進派を説得に派遣したかは疑問ですが、平野は五條に向かいます。

 

③但馬への逃走

平野が五條に向かった翌日に八月十八日の政変が起き、三条実美ら7人の公家は失脚(七卿落ち)します。

 

薩摩と会津が手を組み、長州藩の過激派は一掃。長州藩は御所の警護を解任され、大和行幸も延期天誅組追悼の命が下されます。

 

何も知らない平野は819日に五條に到着。説得どころか天誅組と意気投合

 

直後に政変を知り、挙兵の中止を呼びかけますが、後に引けない天誅組は聞き入れません。

 

説得を諦め京都に戻りますが、新撰組に狙われる事となり、826日同志のいる但馬に向かいます。

 

但馬(兵庫北部〜山陰地方)は生野銀山の産出量が幕末に減少し、住民は困窮。尊王攘夷の気配が強い地域でした。

 

1862年頃より豪農の北垣晋太郎は、周辺の農民に農本論(農民自らが海防を行い領地を守る考え)を提唱。

 

18638月に赴任した生野代官の川上猪太郎は理解を示し、薩摩脱藩藩士の美玉三平が農兵を組織予定でした。

 

生野の変の内容詳細

①農兵組立

挙兵までの経過です。

 

平野が但馬に向かう途中、北垣は京都で長州藩の野村和作と今後の事について話し合っています。

 

彼らの案は七卿落ちで長州に落ち延びた公卿を担ぎ上げ、未だ戦っている天誅組に呼応して挙兵する事でした。

 

その頃、生野代官の川上と薩摩藩士の美玉は但馬で農兵組立会議を開催。本格的な農兵の育成を決定します。

 

しかし但馬の農兵組立が幕府から許可が得たのは直前の816日であり、農兵という考えに否定的な人もいました。

 

92日に平野が、19日には北垣が但馬に到着。その日に平野・北垣・川上・美玉等の上層部を交え、再度農兵組立会議を開催します。

 

海防の為の組織化という方針で表向きの会議は解散。代官の川上は帰ります。

 

首脳部は別室で話し合い、天誅組に呼応し挙兵する事を決定。日時は1010日、生野の代官所の占拠を決定します。

 

920日に平野と北垣は公卿擁立の為に長州へ。美玉は農兵育成に努めます。

 

川上は海防と土地を守る為に農兵組立に賛同しただけで、挙兵の事は全く知りません。

 

②澤宣嘉の擁立と天誅組の壊滅

928日に平野、北垣は長州に到着。七卿や藩主世子の毛利定広と会合を行い、澤宣嘉を擁立します。

 

更に支援をお願いしますが、慎重論が優勢で藩から兵は出しませんでした。

 

志願的に奇兵隊総督の河上弥一ら十数名が挙兵に参加。102日に但馬に出発します。

 

107日に北垣が、108日に平野が別の経路で但馬に到着。その時に天誅組が927日に壊滅し、吉田虎太郎の戦死を知ります。

 

109日に会議を開き、平野北垣は挙兵中止を勧告します。

 

有志の大半は賛成するも、奇兵隊の河上は断固拒否。河上は「我々は倒幕の先鋒であって死ぬ覚悟できている。初志を貫くべきである」と話し、挙兵は実行されます。

 

③挙兵と鎮圧

澤一行は1012日未明に生野の代官を占拠。平野と北垣が「当役所」の名で沢宣嘉の国論文を発します。

 

村々に対し、20歳以上40歳までの男子は武器を持って代官所に集まるよう書かれており、その日の正午には2千人の農兵が集まります。

 

‥ですが、この変はすぐ終了します。

 

幕府は天誅組に呼応する集団がいないか警戒しており、澤一行が但馬に到着した段階で、情報を掴んでいました。

 

生野代官の川上は出張中でしたが、出発前に出石藩や村々に警戒の報を発しています。代官所が占拠された時は抵抗しないよう伝えています。

 

生野代官の占拠は天誅組の変と違い、占拠時の死者はいません。槍等の武器も予め折られており、浪士が武器を使えないよう工夫していました。

 

1013日には代官から連絡を受け、出石藩兵9百人、姫路藩兵千人が生野に出兵。

 

それを知り、再び強行か出直しか意見が分かれます。

 

13日の午後に強硬派の河上達が出陣し、13日未明〜14日明け方には総帥の澤を逃がします

 

平野は解散を告げ、騙された農兵の怒りは爆発。到着した出石藩、姫路藩の鎮静軍は、農兵に浪士の打ち取りを命じます。

 

生野の変のその後

①関係者達のその後

〇奇兵隊総督「河上弥一」とその一行

農兵に襲われ、河上の他、殆どが自決。原六郎は生き残り1933年に91歳で死去。

 

〇薩摩脱藩藩士「美玉三平」

→農兵に撃たれ戦死

 

〇首謀者「平野国臣」

→鳥取藩に逃げる所を捕縛。後に天誅組の残党と共に斬首

 

〇首謀者「北垣晋太郎」

→自宅で自刃するところを母親に説得され鳥取藩に逃れ、戊辰戦争に参加。明治に北海道開拓長官となります

 

〇公卿「澤宣嘉」

→長州に戻り、維新後に初代外務卿となります。

 

②農兵達のその後

生野の変終結後、農兵の怒りは庄屋に向き、打ちこわしが起こりますが、徐々に平穏を取り戻します。1023日には生野代官の川上猪太郎が戻ります。

 

川上は生野の変に間接的に加担した農兵は厳命(強く怒る程度)、指導者も逃走した人以外は村預かりや無罪等、温情政策を取ります。北垣の母も処分はありませんでした。

 

その後京都守護職の御見付が生野に来て、関係者の厳重処罰を指示。川上は全て拒否し、代わりに東北に左遷となります。

 

川上は結果的に農兵組立に加担した立場でもあり、強く言えなかった事もありますが、農兵の弾圧は逆効果と判断したようです。

 

③生野の変の影響

天誅組の変、生野の変はすぐ終了しますが、この変は明治維新の導火線になったと言われています。

 

この後、鉄砲隊を編成。第二次長州征伐で幕府の後方支援に参加するも、士気は全く上がらず敗北しています。

 

生野の変後の幕府の対応が尾を引いていたかもしれません。

 

 

まとめ

 生野の変とは平野国臣、北垣晋太郎が天誅組の変に呼応して挙兵した事件のこと。

 天誅組が挙兵した際、平野国臣は止める為に五條に向かった。

 平野国臣と北垣晋太郎は天誅組の変に呼応する形で生野の変を起こし、澤宣嘉を擁立した。

 但馬は農兵論が浸透し、銀山の枯渇もあり攘夷思想が強い地域だった。

 生野の変はすぐ終結するが、彼らの行動は明治維新の導火線となった。