【兵農分離とは】簡単にわかりやすく解説!!政策が作られた背景や内容・その後など

 

今の時代では誰だって自由に職業に就くこともできますし、公務員でなければ兼業もすることが可能です。

 

しかし、戦国時代の後半になると兼業というものに危機感を抱き始め身分を固定化するという政策が作られるようになりました。

 

今回はそんな政策である『兵農分離』について簡単にわかりやすく解説していきます。

 

兵農分離とは?

 

 

兵農分離とは、戦国・江戸時代に行われた兵士と農民の身分を分けて軍事的にも経済的にも効率的にする政策のことです。

 

この兵農分離がのちに士農工商のようにより細かい身分制度に発展していきました。

 

兵農分離を目指したわけ

 

兵農分離とは簡単にいえば身分を分ける政策のことですが、実は戦国時代以前は武士と農民の身分の差がほとんどなく、長宗我部家の一領具足一向一揆のように農民が武器を持って戦をすることもしばしばありました。

 

しかし、戦国時代の三英傑である信長・秀吉・家康はこのような制度を取り入れず兵農分離という農民と武士の身分を分けました。

 

まずはどうして兵農分離を目指していったのかを見ていきましょう。

 

①常備軍の設置のため

兵農分離の理由の一つに常備軍の設置がありました。

 

先ほども書いた通り戦国時代以前は武士というのは農民が武器を持つことがほとんどであり、戦をする時も農民から人員を徴収するのが常識でした。

 

しかし、これでは困ることがありました。それが農繁期の対処です。

 

戦国時代の日本の財政の中心はお米。そのため、例えばお米を収穫する10月に田んぼで農民がお米を収穫出来なければその時の領国の経営が立ち行かなくなってしまいます。

 

そのため、戦国大名とかは10月になると戦争をやめてとっとと自分の領地に帰るのが日常的だったのです。

 

しかし、兵農分離をすることによって例え農繁期になろうとも御構い無しに戦争を仕掛けられるようになり、また常備軍として特別な訓練を受けやすいというメリットもあり、戦を有利に進められるというメリットがあったのです。

 

②一揆の対応

兵農分離を行った最大の理由の一つに戦国時代には一揆が多発していたことがありました。

 

この頃の一揆といえば一向宗と農民が主力であった一向一揆でしたが、この一向一揆の対応に戦国大名は追われることはしばしばあり、織田信長や徳川家康なんかは一向一揆に何度か手を焼いたこともありました。

 

 

そのため織田信長や徳川家康などは「農民に武器を持たせるともし一揆が起こった場合鎮圧に手間取る」と思うようになり、後に織田信長の意志を受け継いだ豊臣秀吉や徳川家康によって兵農分離が行われ、農民から武器を没収する政策に乗り出すようになったのです。

 

兵農分離の主な政策

①刀狩令

兵農分離の代表的な政策といえば豊臣秀吉が1585年に初めて行った刀狩令が挙げられます。

 

刀狩令とは簡単に言えば農民から刀や槍などの武器を没収することによって農民の反乱を未然に防ぐというものです。

 

しかし、秀吉はこの法令を出すことによって戦国時代には武士と農民の区別がつかなかった状態から武士と農民の違いを明確にしたのでした。

 

 

②海賊禁止令

戦国時代の日本には瀬戸内海を中心として海賊たちがばっこしていました。

 

ちなみに、この場合による海賊はワンピースみたいなお宝を目指して旅をするのではなく、海を通過する商船なんかから通行料を徴収する役割をしてきました。

 

室町時代ならこの海賊と呼ばれた人たちは大名や貿易船などの警護をする代わりにその存在が認められていましたが、室町時代も終わりに差し掛かると秀吉はこの海賊も解散させようとしていくことになったのです。

 

そして、秀吉は1588年に海賊禁止令を発布します。

 

ここでは日本各地にいた海賊たちに対して・・・

  • 秀吉の下の大名に組み込まれるか(例:九鬼水軍)
  • 特定の大名の家臣団になるか(例:村上水軍)
  • それかいっそのこと農民になるか

の三択を迫ります。

 

さらに室町幕府から認められていた通行料の徴収の権利も剥奪され、日本における海賊は姿を消すことになりました。

 

③人掃令

この法律は簡単に言えば「農民が勝手に武士に、武士が勝手に農民になることを禁止する」という法律でした。

 

つまりは身分というものを完全に固定して人それぞれの身分を明確に分離したのです。

 

こうして農民と武士を分離させるという一連の流れは達成され、明治時代に入るまで身分制度が確立されることになりました。

 

兵農分離の効果

①城下町の発展

兵農分離の恩恵を一番受けたと言えるのが城下町でした。

 

元々城下町は大名の本拠地の城付近のことを指したのですが、この兵農分離によって武士と農民が別れることになるとその住んでいる区域も別れることになります。

 

大名たちは武士達をピンチの時にはすぐに駆けつけさせるように城下町に強制的に移住させます。

 

こうすることによって城下町付近の人口は一気に増加して、街は一気に発展。

 

楽市楽座一国一城令とともに城下町の発展の大きや要因となりました。

 

 

②生産の効率化

武士と農民を完全に分けたことによって作業の効率化が図られるようになります。

 

要するに職業を完全に分けたことによってそれぞれの役割に集中できるようになったということになります。

 

武士達は上にも書いた通り、常備軍として常日頃から訓練を受けるようになり、今までとは違う精強な軍隊を作ることに成功し、さらにはいつでもすぐさま出陣できるようになりました。

 

その一方で農民達も戦うということを考えなくてもよくなったということですので、農作業に集中できるようになりました。

 

そのお陰か農作物の生産の拡大も進められることになり、一気に農民達の生活が楽になったというメリットもあったのです。

 

③江戸時代の兵農分離

江戸時代に入ると信長や秀吉が行った兵農分離をさらに強化した形で身分制度を整え始めます。

 

それがいわゆる士農工商の体制でした。

 

 

士農工商は武士・農民・大工・商人で身分をそれぞれ分けたのですが、実際には武士と農工商の三つに分かれているようなもので、実際には農工商はあまり変わりはありませんでした。

 

江戸時代に入ると武士たちに、例えば「名字を名乗っていい」とか、「刀を持っていい」とか「武士に無礼を働いたら切り捨て御免を行なってもいい」などの様々な特権が与えられるようになります。

 

また、武士と農民が結婚することも禁じられ、さらには髷の結い方や服装にも身分ごとに様々な違いが施されました。

 

このように江戸時代になると兵農分離はさらに強化したものになりましたが、明治時代に入ると身分は士族と平民に分かれて最終的に武士は消滅し、さらには昭和の時代になると日本国憲法の中に職業選択の自由が認められるようになるなど今では誰でも色々な職業に就けるようになりました。

 

まとめ

 兵農分離とは戦国時代から江戸時代にかけておこなれた農民と武士の身分を分ける政策のこと。

 兵農分離を行おうとした理由の一つに常備軍の設置や一揆の心配をなくすというものがあった。

 兵農分離のために刀狩令や海賊禁止令や人掃令などが発布された。

 兵農分離の結果城下町が発展し、さらには生産の効率化が図られていくようになった。

 兵農分離は江戸時代に入ると士農工商へと変わっていった。