【ロンドン海軍軍縮会議とは】簡単にわかりやすく解説!!内容や背景・ワシントン海軍軍縮会議

 

まじめな日本史学習者なら、「え?海軍の軍縮?ワシントン会議の中でもう条約結んだじゃん!」と思うはず。

 

いえいえ、あの1922年のワシントン海軍軍縮条約は10年の期限付きでした。そして8年後に見直すことも決まっていたのです。

 

今回は、そんなワシントン会議の10年後に行なわれた『ロンドン海軍軍縮会議』について簡単にわかりやすく解説していきます。

 

ロンドン海軍軍縮会議とは?

(ロンドン海軍軍縮条約 出典:Wikipedia

 

 

ロンドン海軍軍縮条約とは、1930年(昭和5年)に米英仏日伊が参加のも開かれた海軍の補助艦保有量の制限を主な目的とした国際会議のことです。

 

この時の日本の内閣は浜口雄幸内閣。会議に参加した日本の全権は若槻礼次郎元首相、海軍大臣財部彪らが参加しました。

 

このころ、世界恐慌がひろがって各国とも国内事情は悪く、戦争どころではありませんでした。平和を保つため、軍縮会議が開かれたのです。

 

ロンドン海軍軍縮会議の内容

(会議の夕食リスト表 出典:Wikipedia

 

 

 内容は大きく分けて以下の2つです。

条約の内容

主力艦の代艦建造を1936年まで休止する

補助艦保有量の制限比を決める(米英10、日本6.975)

 

代艦建造とは、老朽化した主力艦の代わりに新しい船を作ることです。たとえ古くなっていても、新しい大きな船をつくることは引き続き禁止されました。

 

また、ワシントン海軍軍縮条約では巡洋艦や潜水艦など補助艦の数や総トン数は制限がありませんでした。

 

 

このため、各国は条約の制限を受けない高性能の巡洋艦をつくっていました。

 

軍縮に抜け道があるのはまずいということで、1927年には補助艦の制限について検討するジュネーブ海軍軍縮会議がもたれますが、米英の間でうまく話がまとまりませんでした。

 

その後米英の間で下準備の話し合いがもたれ、うまく進展しそうだったため、改めてロンドンで会議が開かれました。

 

ワシントン海軍軍縮条約との違い

(1921年に開かれたワシントン会議の様子)

①ワシントン海軍軍縮条約は・・・

1922年に結ばれたワシントン海軍軍縮条約は、主力艦の保有量を制限するものでした。

 

主力艦とは戦艦と空母を指し2万トンを超えるような大型の船です。

 

主力艦は各国の間で比率が定められ、新たな船を作ることはできなくなりました。

(米英5、日本3、フランス・イタリア1.67)

 

船齢20年以上の船を更新させることはできましたが、主力艦をすべて最新鋭にすることは各国ともできなくなったのです。

 

ただし、補助艦と呼ばれる巡洋艦や潜水艦などより小さい船には制限がなく、各国は競って高性能の巡洋艦を作るようになりました。

 

②ロンドン海軍軍縮条約は・・・

この補助艦の制限を行ったのがロンドン海軍軍縮条約です。

 

日本の補助艦保有比率は対米6.975割とワシントンよりやや多くなりました。

 

日本はアメリカを仮想敵国としており、戦争になったら船が対米7割の数がないと勝てないと考えていました。

 

そのため、7割は海軍の参謀(軍令部)にとっては譲れないラインだったのですが、外相幣原喜重郎は対米協調路線をとり(幣原外交)6.975割で条約を成立させました。

 

ロンドン海軍軍縮会議が行われた当時の時代背景

(1936年にカリフォルニア、7人の子供を抱えて極貧生活を送っている母親 出典:Wikipedia

 

 

ロンドン海軍軍縮会議が行われた1930年の前の年、1929年は世界恐慌の始まった年です。

 

 

アメリカから始まった恐慌は第一次世界大戦の痛手からまだ脱し切っていなかったヨーロッパを襲い、列強は船をたくさん作って軍備を増強するよりも現状を維持し、平和が維持されることを望んでいました。

 

日本の状況

日本もまた、戦後不況関東大震災金融恐慌と続く経済の問題にあえいでいました。

 

 

首相の浜口雄幸は緊縮財政によってデフレを乗り切ろうとしており、軍縮によって浮いたお金で国民の負担を軽くしようとしました。

 

第一次大戦後に力をつけるアメリカに国力の面で日本がかなうわけがなく、軍拡で武力衝突を起こすより対米協調路線をとってじっくりと国力をあげていこうとしたのです。

 

日本にとっても軍縮は喜ばしいことのはずなのですが、対米協調路線を軟弱外交とみる立憲政友会や軍の一部にとっては面白くありません。

 

この問題はのちに統帥権干犯問題となり、経済問題での失敗もあって浜口首相は東京駅で暴漢に狙撃されるのです。

 

 

統帥権干犯問題

①批判を受けるロンドン海軍軍縮条約

ロンドン海軍軍縮会議で成立した条約は、国内の議会で批准する必要がありました。

 

しかし、フランスやイタリアはこの条約に部分的にしか参加していないことから、

 

「日本もその条約に参加しなければよかった」とか、「対米7割は絶対に譲れなかったのに勝手に決めてきた」など、マスコミや野党の立憲政友会、海軍軍令部から批判が出てきました。

 

②これは統帥権の干犯だ!

とくに、野党の政友会は、帝国憲法に「天皇ハ陸海軍ヲ統率ス」と書いてあることを持ち出して、

 

「軍の兵力量など用兵に関する内容は、軍を統帥する天皇に決める権利(統帥権)があるのに、内閣が天皇の承諾なしに勝手に決めたらダメだろう」(統帥権干犯)といって責め立てました。

 

このときは元老西園寺公望や海軍主流派の支持を得て、統帥権干犯問題があってもなんとか軍縮条約を批准することができました。

 

しかし、この時責め立てたことがあとで大きな問題を起こすのです。

 

③統帥権を犯すべからず=軍部は内閣の制限を受けない

「天皇の統帥権を政府が邪魔してはいけない」という話は、「軍に命令できるのは天皇だけ」ということにすり替わり、のちに軍が満州で勝手に事件を起こしたり、戦闘を始めたりするのを政府が防げなくなりました。

 

軍隊という実力組織をきちんと管理するにはシビリアンコントロール(文民統制)といって軍を動かせるのは「政府だけ」と決めておくことが大事です。

 

しかし、この統帥権干犯問題によって軍部の独走にお墨付きを与えるような事態になってしまったのです。

 

 実はロンドン海軍軍縮会議は二回目もあった

 

 

実はロンドンでの軍縮会議はもう一回あって、第二次ロンドン海軍軍縮会議が1935年に開かれています。

 

これは1930年のロンドン海軍軍縮条約の改正を目的としたものですが、前年に行われたすり合わせの予備交渉がうまくいかず、日本はこの段階でワシントン海軍軍縮条約の破棄を通告しています。(2年間の猶予期間を経て1936年にはこの会議を正式に脱退)

 

イタリアも脱退したため米英仏の三か国で1936年に第二次ロンドン海軍軍縮条約が締結され、主砲の大きさや排水量の制限がなされました。

 

まとめ

 ロンドン海軍軍縮会議とは、1930年に開かれた列強国による軍縮会議のこと。

 この会議により、日米英の補助艦保有量を制限した。

 補助艦の比率はアメリカ10:日本6.975。

 ロンドン海軍軍縮会議では、フランスとイタリアは棄権した。

 この会議により、統帥権干犯問題が発生した。