【第二次世界大戦とは】簡単にわかりやすく解説!!開戦の原因や死者数【まとめ】

 

史上最大の戦争「第二次世界大戦」。

 

その始期については、1931年の満州事変、1936年のスペイン内乱、1937年の日中戦争勃発とする立場もあるので、日本史を学ぶ上ではやや注意を要します。

 

ただ、日中戦争はあくまでも後から第二次世界大戦に飲み込まれたと考える立場が一般的です。

 

逆に、194112月の真珠湾攻撃に始まる太平洋戦争は、外国では「第二次大戦の太平洋戦場」と呼ばれることが多く、完全に第二次世界大戦の一部とみなされています。

 

今回は、この『第二次世界大戦』について簡単にわかりやすく解説していきます。

 

第二次世界大戦とは?

(第二次世界大戦 出典:Wikipedia

 

 

第二次世界大戦とは、1939年のドイツによるポーランド侵攻をきっかけに始まり、世界の多くの国を巻き込んだ人類史上最大の戦争です。

 

ドイツでは、第一次世界大戦後の社会的混乱を背景にしてナチスが台頭し、イタリアや日本と同盟を結んでファシズム枢軸国を形成しました。

 

これらの枢軸国に対抗するため、英・仏・米・ソ・中などを中心とした連合国が形成されました。

 

枢軸国側は、イタリア、ドイツの順に無条件降伏し、残る日本もポツダム宣言を受諾して降伏しましたが、この宣言をめぐる米ソの対立が戦後の冷戦の引き金にもなりました。

 

第二次世界大戦が起こった背景と原因

(第一次世界大戦「ドイツの突撃歩兵」 出典:Wikipedia

①第一次世界大戦の勃発と敗戦国

19146月、ボスニアの首都でオーストリアの皇太子夫妻がボスニア出身の青年に暗殺されました。

 

都市名にちなんでサラエボ事件と称されるこの出来事を機に、オーストリアがサラエボに宣戦布告し、第一次世界大戦が勃発しました。

 

オーストリア側には同盟国のドイツ・トルコ・ブルガリアが参戦し、セルビア側の連合国にはロシア・フランス・イギリス・アメリカ・イタリアなど27か国が名を連ねました。

 

日本は日英同盟を口実に連合国側に加わり、中国や南洋諸島におけるドイツの拠点を占領しました。

 

連合国のうち、ロシアは国内で社会主義革命が起こった影響で、1918年にブレスト=リトフスク条約を結んでドイツと単独講和し、戦線から離脱しました。

 

この条約はロシア(ソ連)に不利な内容でしたが、後にドイツが第一次世界大戦に敗れたことで無効となりました。

 

時代は前後しますが、初め不利だった連合国側が形成を逆転できたのは、1917年のアメリカ参戦によるところが大きかったと言えます。

 

巨大な工業生産力を持つアメリカが加わったことで枢軸国側は追い詰められ、1918年9月にブルガリア、10月にトルコ、11月4日にオーストラリア、11月11日にドイツが降伏し、第一次世界大戦は終結しました。

 

②ドイツへの巨額の賠償金と世界恐慌

(パリ講和会議における各国首相 出典:Wikipedia)

 

 

第一次世界大戦終了翌年の19191月、パリ講和会議が開催されました。

 

会議では、ドイツに対してヴェルサイユ条約が結ばれたほか、ブルガリア、トルコ、オーストラリアとも個別に条約が締結されました。

 

 

中でもヴェルサイユ条約は、対独報復感情の強いフランスの影響で過酷な内容となりました。

 

この条約によってドイツは海外の植民地を全て失うとともに、アルザス・ロレーヌ地方をフランスに割譲するなど、本国領土も約6分の1が削られました。

 

さらに、ドイツは1,320億金マルクという天文学的な数字の賠償金を課せられました。

 

これは、現在の日本円に換算して200兆円を超えるとも言われる莫大な金額です。

 

一方で、第一次世界大戦の惨事を繰り返さないために、アメリカ大統領ウィルソンの提案で国際連盟が設立されました。

 

国際連盟は、当のアメリカが議会の反対で参加できず、当初はドイツとソ連を除外するなど、いくつかの問題を抱えていましたが、1929年の世界恐慌までは正常に機能しました。

 

この国際協調をヴェルサイユ体制と言います。

 

ヴェルサイユ体制を崩壊させたのは、19291024日の「暗黒の木曜日」に起こったニューヨーク株式取扱所の株価暴落に始まった世界恐慌です。

 

 

世界恐慌は全資本主義国に波及しましたが、その中で最も大きな影響を受けたのがドイツでした。

 

③ヒトラーの誕生とドイツのファシズム化

(1930年のアドルフ・ヒトラー 出典:Wikipedia)

 

 

第一次世界大戦の莫大な賠償金に苦しんでいたドイツは、世界恐慌で深刻な打撃を受け、失業者が激増しました。

 

このような社会情勢を背景にして1920年に生まれたのが、国家社会主義ドイツ労働者党、通称ナチスです。

 

ナチスを率いたヒトラーは、1923年に政権獲得を目指してミュンヘン一揆を起こしましたが、このクーデターは即日鎮圧されました。

 

その後ナチスは合法路線に転換し、1932年の総選挙で第一党となりました。

 

同じ年に開かれたローザンヌ会議ではドイツの賠償金の減額と支払期間の延長が認められましたが、ヴェルサイユ体制の打破を訴えるヒトラーはこれでもまだ不十分だとして批准を拒否しました。

 

さらにヒトラーがヒンデンブルク大統領により首相に任命されると、ナチスはその正式名称に「社会主義」「労働者」を含んでいるにもかかわらず共産党を弾圧し、左派勢力を駆逐しました。

 

そして、1934年にヒンデンブルクが死去すると、ヒトラーは大統領制を廃止して総統(フューラー)と名乗り、全権を握りました。

 

ドイツのファシズム体制は、こうして確立したのです。

 

④イタリアのファシスト党

時代は前後しますが、イタリアは第一次世界大戦の戦勝国でありながら、期待していた領土を充分に得られず、「講和での敗戦国」と呼ばれました。

 

このような不満を背景として、ムッソリーニの率いるファシスト党1928年に独裁制を確立しました。

 

これが反民主主義(全体主義)を意味する「ファシズム」の語源です。

 

第二次世界大戦の勃発と経過

(ドイツ空軍の爆撃機 出典:Wikipedia)

①第二次世界大戦のはじまり

第二次世界大戦は、193991日にポーランドに侵入したドイツに対し、93日にイギリスとフランスが宣戦布告したことで開始されました。

 

当時の日本の阿部信行・米内光政両内閣は不介入の方針を貫いていましたが、翌1940年にドイツが快進撃を続け、6月にパリを陥落させると、同盟を結んで南方に進出しようとする機運が高まりました。

 

7月には軍部の支持を受けた近衛文麿が政権を奪い、二度目の首相就任を果たしました。

 

近衛内閣はドイツ・イタリアと日独伊三国同盟を結ぶとともに、日ソ中立条約を締結しましたが、対米開戦には消極的でした。

 

 

しかし、開戦を主張する東条英機内閣が成立すると、日本は1941128日にハワイの真珠湾を奇襲し、アメリカとイギリスに宣戦布告しました。

 

これが、第二次世界大戦の一部である太平洋戦争の始まりです。

 

②世界各地で勃発する戦い

西部戦線の戦い

1940年から西部への攻撃を開始したドイツは、中立国のデンマーク・ノルウェー・オランダ・ベルギーに次々と侵入し、6月にはフランスのパリを占領しました。

 

 

(フランス凱旋門を行進するドイツ軍 出典:Wikipedia)

 

 

この結果、フランスの北半はドイツが占領し、南半は対独協力のペタン内閣が統治することになりました。

 

これに対して、フランス国内でレジスタンス運動が展開される一方、ド=ゴールが亡命先のロンドンで自由フランス政府を組織し、抵抗を続けました。

 

イギリスは、チャーチル首相を中心に抗戦してドイツ軍の激しい空襲に耐え、本土上陸を許しませんでした。

 

東部戦線の戦い

(スターリングラードの戦い 出典:Wikipedia)

 

 

1941年、ドイツは独ソ不可侵条約を破って宣戦布告し、独ソ戦争が開始されました。

 

ソ連は第二次世界大戦参加国の中で最多の犠牲者を出しながらもドイツに徹底抗戦し、中でも1942年に始まったスターリングラードの戦いは激しい市街戦となりました。

 

太平洋戦線の戦い

1941年の真珠湾攻撃が成功して以来、戦況は日本に有利でしたが、19426月のミッドウェー海戦に大敗したことで形勢が逆転しました。

 

この敗北で航空母艦の主力を失った日本は徐々に制空権を奪われ、1944年末からはアメリカ軍による本土爆撃が激化しました。

 

 

③第二次世界大戦の構図

第二次世界大戦は、典型的な帝国主義戦争だった第一次世界大戦とは違い、日・独・伊などのファシズム枢軸国軍と、英・仏・米などにソ連を含めた連合国軍の民主主義との戦いという側面を持っていました。

 

中でも、社会主義国であるソ連が立場の違いを超えて連合国側に加わったことは特筆されます。

 

中国も、日中戦争の開始に合わせて国民党と共産党が手を握り、抗日民族統一戦線を結成して日本に対抗しました。

 

④第二次世界大戦の特徴

第二次世界大戦の特徴は、軍隊の力だけでなく、各国の工業生産力や経済力、科学技術力などが戦局を左右する総力戦であったことです。

 

この傾向は第一次世界大戦ですでに見られましたが、第二次世界大戦ではそれがさらに深度化しました。

 

兵器に関しても、戦車や航空機の発達に加えて、レーダーやロケット、果ては原子爆弾に至るまでの大量殺戮兵器が使用され、悲惨な消耗戦となりました。

 

第二次世界大戦の終結

(解放されたパリの様子 出典:Wikipedia)

①東部戦線の終結

独ソ戦争を中心とした東部戦線は、1943年、最大の激戦であるスターリングラードの戦いにソ連が勝利したのが決定的な転機となりました。

 

これにより、ドイツはソ連からの撤退を余儀なくされ、東部戦線は事実上終結しました。

 

②西部戦線の終結

西部戦線では連合国軍が19437月にシチリア島に上陸してムッソリーニが失脚し、9月にイタリアは無条件降伏するに至りました。

 

また、446月には米軍を主体とする連合国軍がノルマンディー上陸作戦に成功しました。

 

フランス国内のレジスタンス組織もこれに呼応して蜂起し、ナチスに占領されていたパリは8月に解放されました。

 

19455月にはヒトラーが自殺してドイツも無条件降伏し、西部戦線は終結しました。

 

③太平洋戦線の終結

日本の劣勢が決定的となった太平洋戦線では、19454月にアメリカ軍が沖縄に上陸し、激しい地上戦が展開されました。

 

本土への空爆もより激化し、同年8月6日の広島への原爆投下、8月8日のソ連対日参戦、8月9日の長崎への原爆投下を経て、日本がポツダム宣言を受諾して無条件降伏し、第二次世界大戦は集結しました。

 

 

第二次世界大戦の死者数

(第二次世界大戦における死者数 出典:Wikipedia

 

 

兵器の著しい発達の影響で、第二次世界大戦ではおびただしい数の犠牲者が出ました。

 

民間人を含めた死者数には諸説ありますが、一説には連合国側が約4,360万人(ソ連2,060万人・中国1,321万人・ポーランド603万人など)、枢軸国側が約1,323万人(ドイツ689 万人・日本310 万人など)とされています。

 

勝利を収めた連合国側の方が多くの死者を出したというのは、あまり知られてない事実ではないでしょうか。

 

第二次世界大戦のその後

(ヤルタ会談の開催 出典:Wikipedia)

①ヤルタ会談の開催

19452月には、第二次世界大戦の戦後処理について話し合うため、ソ連のクリミア半島のヤルタで会談が開かれました。

 

出席者は米のフランクリン・ルーズベルト大統領、英のチャーチル首相、ソ連のスターリン書記長です。

 

この際、アメリカとソ連の間で秘密協定が結ばれ、ソ連の対日参戦や、南樺太および千島列島をソ連の領土とすることなどが密約されました。

 

これが今も北方領土問題として尾を引いています。

 

 

②ポツダム宣言の発布

1945年の7月から8月にかけて、ドイツのベルリン郊外にあるポツダムにおいて、米・英・ソの首脳が会談を行いました。

 

これにより、日本に無条件降伏を勧告するポツダム宣言が採択されましたが、一方で戦後処理を巡って米ソの対立が表面化しました。

 

これが戦後の長きにわたって続く米ソ両陣営の東西冷戦(冷たい戦争)の引き金になりました。

 

その影響もあって、7月当初は米・英・中の3国によりポツダム宣言が発布され、ソ連の参加は対日参戦と同日の88日までずれ込みました。

 

 

③ポツダム宣言の受諾

日本は当初ポツダム宣言の受諾を拒否しましたが、810日の御前会議で受託を決定し、14日に連合国側に通告、翌15日に玉音放送で国民に知らされました。

 

これにより、連合国側の勝利が確定し、第二次世界大戦はようやく終結したのです。

 

まとめ

 第二次世界大戦は、1939年のドイツによるポーランド侵攻をきっかけに始まり、世界の多くの国を巻き込んだ人類史上最大の戦争となった。

 ドイツでは、第一次世界大戦後の社会的混乱を背景にしてナチスが台頭し、イタリアや日本と同盟を結んでファシズム枢軸国を形成した。

 枢軸国に対抗するため、英・仏・米・ソ・中などを中心とした連合国が形成された。

 枢軸国側は、イタリア、ドイツ、日本の順に無条件降伏した。

 日本はポツダム宣言を受け入れて降伏したが、この宣言をめぐる米ソの対立が戦後の冷戦の引き金にもなった。