【寛政の改革とは】簡単にわかりやすく解説!!目的や内容・結果・その後など

 

政治というのは難しいもので真面目な人がやるとなんだかんだ失敗してしまうケースが多いです。

 

寛政の改革もそんな真面目すぎて失敗してしまった改革の1つでした。

 

今回は、そんな『寛政の改革』について簡単にわかりやすく解説していきます。

 

寛政の改革とは?

(松平定信 出典:Wikipedia

 

 

寛政の改革とは、1787年(天明7年)から1793年(寛政5年)まで行われた松平定信による財政改革のことです。

 

寛政の改革は徳川吉宗が行った享保の改革、水野忠邦が行った天保の改革とあわせて江戸三大改革と呼ばれています。

 

 

寛政の改革が行われた背景や目的

(田沼意次 出典:Wikipedia

①田沼意次の重商主義

享保の改革が終わったのち、幕府の財政改革は田沼意次という人が担当していくようになります。

 

田沼意次の改革の最大の特徴は、重農主義が絶対の江戸時代に重商主義という商業を重視した政策をたくさん行ったことにあると思います。

 

 

例えば、株仲間の創設

 

株仲間というのはいわゆる商品の組合みたいなもので、商品の流通や価格をひとまとめにして幕府はそこから税金を徴収するという新たなシステムでした。この株仲間は商人にとっても幕府にとってもいいことずくめでまさしくwin-winな制度でした。

 

さらに当時バラバラだった貨幣制度(江戸などの東日本は金、大坂・京都などの西日本は銀)を統一して貨幣の流通をスムースにしました。

 

それだけではなく田沼意次は貿易にも力を入れます。

 

当時、日本は貿易赤字でした。そこで貿易赤字をなくすために日本近海で取れるナマコやアワビやフカヒレなどの海産物(俵物)を中国中心に売り始めます。

 

この海産物は中国で高い評判を呼び、いつしか日本は貿易黒字へと変わっていきました。

 

しかし、その分賄賂政治が始まってしまい、汚職が頻繁に起こってしまいます。

 

②田沼意次の失脚と松平定信の台頭

田沼意次の改革は画期的なものが多かったのですが、それが仇となり幕府の人から反感を買ってしまいます。

 

さらに浅間山の大噴火による大飢饉(天明の大飢饉)印旛沼の灌漑事業の失敗が、さらに反感を加速させてしまいついには失脚してしまいます。

 

 

田沼意次が失脚した後に幕府の財政改革を推し進めたのが、今回の主人公である松平定信でした。

 

松平定信は白河藩での財政を立て直すという功績を挙げて、さらに飢饉の時には白河藩では死者数がゼロという偉業も成し遂げていました。

 

そこで幕府は田沼意次に変わってこの頼れる松平定信に財政の立て直しを任せたのです。

 

寛政の改革の内容

 

寛政の改革では農業を中心としたさまざまな政策をしていました。

 

①経済政策

寛政の改革では農業を中心とした財政の立て直しが行われていました。

 

例えば、囲い米と旧里帰農令というものが代表的です。

 

 

囲米というのは全国の藩にお米の蓄えておいて飢饉の時に備える制度のことです。

 

さらに江戸の人たちには後で紹介する七分積金と一緒にお米の蓄えをさせていました。

 

一方、旧里帰農令とは江戸に来ていた農民に対して故郷の農地に返すという制度です。

 

こうすることによって当時パンク寸前だった江戸の人口を抑えることができます。

 

しかし、この制度は強制力はありませんでした。

 

②学問、風紀政策

寛政の改革では寛政異学の禁という朱子学(儒学)以外の学問を教えることは禁止とする制度が確立しました。

 

 

つまり、蘭学はもちろん国学も教えることができなくなってしまったのです。

 

さらに幕府の政策に反対するような本などを書いたものを処罰の対象とし、結果幕府を批判した本『海国兵談』の作者林子平などが処罰されてしまいました。

 

さらに松平定信は田沼時代に緩やかとなった風紀を引き締めるために、絹織物などの贅沢品などを取り締まるいわゆる倹約令を推し進めます。

 

 

さらに派手な内容な本を書い洒落本作者の山東京伝、さらに山東京伝の版元(本のスポンサー)であった蔦屋重三郎などが処罰されてしまいます。

 

③商人対策

寛政の改革では田沼時代に行なっていた政策を全て取りやめ、株仲間の解散・自由に商売させることによって商品の価格を抑えさせようとしました。

 

④救済政策

松平定信は借金に苦しんでした旗本に対して棄捐令という借金の取り消しの制度を作ります。

 

この棄捐令によって借金の利子の引き下げや6年間以前に借りた借金はチャラになりました。

 

さらに江戸にゴロゴロいた浮浪者対策として、江戸の石川島という場所で人足寄場という今でいうところのハローワークみたいなものを設立しました。

 

 

⑤外交政策

寛政の改革が行われていた時にロシアからラクスマンという人が根室に来航してきました。

 

ラクスマンは漂流者である大黒屋光太夫の返還する代わりにロシアとの貿易を始めようとしてきます。

 

しかし、幕府はそれを拒否。この事件から幕府は蝦夷地(北海道)の直轄化をし始め、ロシアなどの外国に備えていくようになります。

 

寛政の改革の終わり

①町民の不満

寛政の改革は多くの人から反感を買う結果となってしまいました。

 

例えば、風紀を規制したことによって江戸の町には活気がなくなり、寂れてしまいます。

 

そして人々は『白河の 清きに魚も 住みかねて もとの濁りの 田沼恋しき(※白河は白河藩主の松平定信のこと。つまりこの狂歌は松平定信の時代は苦しいから田沼意次の時代が恋しいという意味)という狂歌を詠み、田沼意次の方が松平定信よりも何百倍町民に優しい政治家ということに気づいていくようになります。

 

②尊号一件と松平定信の失脚

1788年(天明8年)尊号一件と呼ばれる事件で松平定信は失脚してしまいます。

 

 

尊号一件とは、当時の天皇の父である典仁親王に上皇の称号を与えようとしたのを松平定信が拒否した事件です。

 

この事件のどこが失脚の原因になったというと、当時の将軍徳川家斉も天皇と同じ父親に称号を与えたかったのです。

 

 

(徳川家斉 出典:Wikipedia

 

 

天皇に対して拒否したのに将軍が父親に称号を与えることはできませんでしたので家斉は「あの松平!余計なことしやがって!」と思ったことでしょう。

 

結果的に松平定信は家斉と仲が悪くなり、最終的には失脚してしまい寛政の改革は終わってしまいました。

 

寛政の改革が終わった後の幕府

 

松平定信が失脚した後、江戸では倹約ムードがなくなり町民の活気を取り戻します。

 

将軍の徳川家斉も羽目を外したのか55人の子供を産んで派手な生活を送っていくようになりました。

 

そして江戸では化政文化という新たな文化が始まり江戸は賑やかな大都市へと変わっていくのでした。

 

 

まとめ

 寛政の改革は松平定信が行った農業重視の改革。

 寛政の改革は飢饉に備えた性格をした一方で風紀を取り締まり江戸の活気がなくなってしまった。

 尊号一件が原因で松平定信は失脚してしまい、寛政の改革は終わりを迎えた。

▼江戸三大改革である『享保の改革』『天保の改革』もしっかり理解しよう!