【人足寄場とは】わかりやすく解説!!目的や背景・影響・その後について

 

江戸時代の自立支援施設として時代劇でも名前を聞くことがある人足寄場(にんそくよせば)。

 

当時、世界的にも先進的な更生プログラムがあったという話も聞きます。

 

いったいどんな施設だったのか、今回はそんな『人足寄場』についてわかりやすく解説していきます。

 

人足寄場とは

(加役方人足寄場 画像引用元

 

 

人足寄場とは、江戸幕府が作った自立支援のための収容所のことです。

 

正式名称は加役方人足寄場(かやくかたにんそくよせば)。たんに寄場とも言われました。

 

寛政2 (1790) 年、江戸石川島(いしかわじま)に設立。無宿人、刑期を終えた浮浪人などに仕事を覚えさせ、まっとうな仕事につかせようというものでした。

 

人足寄場ができた背景

①天明の打ちこわし

1787(天明7)年、江戸・大坂など全国30余りの都市で米屋などが打ちこわされる天明の打ちこわしという騒動が起きました。

 

特に江戸では5日間も打ちこわしが続く事態になり、幕府は強い危機感を持ちます。

 

そこで老中に就任した松平定信は思い切った改革を断行。これが寛政の改革です。

 

寛政の改革が行われたのは、打ちこわしという社会崩壊をなんとかしようという危機感からでした。

 

 

②都市部の治安悪化

その背景には、江戸や大坂などの都市部の人口が急増し、農村の人口が減ったことがあげられます。

 

江戸時代有数の大飢饉となった天明の飢饉では多くの餓死者が出て、農村から都市へ多くの人が移住しました。

 

そこで戸籍から外された無宿人と呼ばれる人々が多く出現。その一方でかなりガラの悪い連中も街を徘徊するようになって、都市の治安が悪化します。こうした人々が中心となって起こしたのが天明の打ちこわしだったのです。

 

また、宿がない人々が寒さをしのぐためにたき火をしたため、火事が多発するという問題もありました。

 

幕府としても何らかの対策を打つ必要があったのですが、これは都市部だけの問題ではなく、農村の荒廃という社会の構造的な問題から起きたものだったので簡単にはいきませんでした。

 

また、松平定信の政策は贅沢の禁止や倹約といったものだったので、都市部の景気は悪化し、さらなる対策を必要としていました。

 

人足寄場の設立

①長谷川平蔵の献策

そんな無宿人対策として提案されたのが人足寄場でした。

 

提案したのは、火付盗賊改(ひつけとうぞくあらため)の長谷川平蔵。現在では「鬼の平蔵」、略して「鬼平」として小説や時代劇の『鬼平犯科帳』で有名な人物です。

 

火付盗賊改は江戸の火災や盗難などを防ぐ役職で、今で言う警察のパトロール担当といったところ。

 

平蔵は一時期存在した無宿養育所をヒントに、無宿人を仕事につかせるための施設を考えたのでした。江戸の治安悪化を現場で見ている人間ならではの案と言えるでしょう。

 

②石川島に人足寄場を建設

平蔵の提案により、老中・松平定信は寛政2 (1790) 年江戸石川島に人足寄場を建します。

 

石川島というのは現在の東京都中央区佃(つくだ)。佃煮でおなじみの佃島の一部です。

 

運営にあたっては平蔵が引き続き担当することになりました。なお、人足寄場は後に常陸(ひたち)や長崎・箱館などにも作られています。

 

人足寄場の内容・役割

①人足寄場の仕組み

人足寄場には無宿人や刑期を終えたものの引き取り手がなかった人々が集められ、収容されました。

 

この当時、罪を犯した者はむち打ちなどの刑罰を受けても、仕事がなく宿もないのでまた盗みなどの罪を犯すということが多かったのです。

 

彼らに仕事を覚えさせ、二度と盗みなどをしないようにするというのが人足寄場の目的でした。

 

当初は100名ほど、後に規模を拡大して400~600人を収容したと言われます。

 

収容者には社会復帰に向けて職業訓練を受けさせました。人足寄場で仕事をすると賃金が支給され、社会復帰のための資金ももらえるという仕組みです。

 

②更生プログラム

寄場には作業場があって、大工、建具製作、塗物、紙すきや米つきなどの仕事に従事させました。こうして仕事の技術を覚えさせ、更生を図ろうとしたのです。

 

また人足寄場には教育の場としての機能もありました。

 

犯罪に手を染めないようにするには、ただ仕事を与えるだけではなく教育も必要だということで、学校の道徳の時間のようなものが設けられたわけです。

 

心学(しんがく)」といって、庶民に対してわかりやすくたとえ話で教訓を教える学問が流行していたのですが、こうしたものを収容者に講義したのでした。講師には当時の有名な心学者が招かれ、収容者たちは講話を聴いて感激の余り涙を流したそうです。

 

また、正月には鮭が出たり、月見の日には団子が出たりと、食事も季節のものが出されました。当時の庶民の食事としては豪華ですね。

 

これは季節のイベントをちゃんと経験させることで、情操を育てようという意図があったようです。

 

このように、人足寄場は無宿人をこらしめるのではなく、ちゃんと育てて社会復帰させるための更生プログラムが作られていました。

 

現在の刑務所でも受刑者に職業訓練をさせたり、社会復帰の資金を積み立てたり、精神を安定させるために娯楽の時間もあったりしますが、こうした取り組みを江戸時代にすでに実施していたことになります。

 

これは当時としては世界的にも珍しいことで、人足寄場が先進的な施設だったと言われる理由となっています。

 

③犯罪者の収容施設に

こうして無宿人の更生施設、自立支援施設としてスタートした人足寄場ですが、後に犯罪者を収容する刑務所の役割を果たすようになりました。

 

当初は罪を犯す前の人や刑期を終えた人が収容されていたわけですが、犯罪者も収容されるようになったわけです。

 

『遠山の金さん』などの時代劇でも、「○○を寄場送りとする」などといったセリフが出てきます。

 

これは犯罪に巻き込まれて心ならずも悪事に加担をした庶民に対する温情措置として描かれるケースが多いようです。

 

人足寄場のその後

 

 

石川島の人足寄場は幕末まで存続しますが、明治維新によって石川島徒場(とじょう)となりました。

 

何度か改称した後、1877(明治10)年に警視庁管轄下の石川島監獄署となり、現在と同じような懲役刑が行われる施設ができあがります。

 

その後、東京の都市化が進むと、石川島から巣鴨に移転。この巣鴨監獄・巣鴨刑務所は後に巣鴨拘置所となります。東京裁判で有名な巣鴨プリズンと言われたところです。

 

ちなみに、この巣鴨監獄は現在の池袋サンシャインシティがある場所です。

 

巣鴨刑務所はさらに府中市へ移転。これが現在の府中刑務所です。

 

まとめ

・人足寄場は無宿人を収容した自立支援施設のこと。

・松平定信の寛政の改革のひとつとして実施された。

・提案したのは火付盗賊改の長谷川平蔵。

・大工や建具製作、塗物といった仕事を覚えさせ、社会復帰を支援した。

・心学などの教育も行われ、世界でも先進的な更生プログラムを持った施設だった。

・後に犯罪者を収容する施設になった。