第一次世界大戦後、近代民主主義に対して全体主義というものが登場します。
その代表的な国が日本・ドイツ・イタリアでいずれも第二次世界大戦でともに戦った国です。
今回はこの『全体主義』の意味や歴史・日本との関わりについて簡単にわかりやすく解説をしていきます。
目次
全体主義とは?
(イタリア陸軍のパレード 出典:Wikipedia)
全体主義とは、個人の自由を制限し、国家や社会全体の利益追求を優先する体制を指します。
高いカリスマ性を持った指導者が独裁政治を行い、自国や民族の優位性をアピールすることで国民を統合していきます。
対外的には侵略を進め、体制に反抗的な集団に対しては暴力を使って弾圧を加えていく傾向があります。
主に第一次世界大戦後に出てきた思想で、昭和初期の日本・ヒトラーのナチスドイツ・ムッソリーニのイタリアで見られました。このような体制はファシズムとも呼ばれました。
また、全体主義国家に見られる特徴は共産主義国家にも見られる特徴でもあります。
このことからソ連もまた全体主義国家と考えられることもあります。
両者の違いは私有財産や階級闘争を認めるか認めないか、というところにあります。従って、広義の全体主義ではファシズムと共産主義、狭義の全体主義ではファシズムと同義と捉えても構いません。
学校の歴史で学ぶ内容としての戦間期における全体主義はファシズムと同じ意味合いで使われています。
全体主義の代表的な国
①イタリア
全体主義国家として初めて政権を得たのはイタリアのムッソリーニ率いるファシスト党です。
(ムッソリーニ 出典:Wikipedia)
この政党はファシズムの語源ともなりました。古代ローマの束や団結を意味するファシオが語源になっています。
イタリアは第一次世界大戦で勝利者側にいたものの、賠償金も得ることができず戦後不況に陥っていました。
こうした状況は社会主義の台頭を許し、社会不安も増大。そんな中、危機感を持ったムッソリーニはファシスト党を結成します。
彼は資源の乏しいイタリアが大国になるためには、領土拡張が必要だと考え、かつてのローマ帝国の復活を目指しました。イタリア人はローマ人の末裔だとして鼓舞したのです。
もともと彼の支持者は中間層や農民でしたが、共産革命を恐れる資本家や地主・軍部からも支持を受けます。
1922年、政権獲得のためムッソリーニは武装化しにローマに進軍、国王は鎮圧をせずムッソリーニ政権が樹立されます。この一連の流れをローマ進軍と言います。
(進軍するファシスト党員 出典:Wikipedia)
政権を得たムッソリーニは首相として連立内閣を主導します。最初から独裁体制だったわけではありませんでした。
しかし、制度改革はなかなか思うようには行きません。
独裁が必要だと考えたムッソリーニはドゥーチェ(統領)と呼ばれる独裁者になることで事態を打開しようとしました。
独裁体制が確立されるとムッソリーニは高速道路の建設や鉄道の電化など公共事業を積極的に行い、イタリア経済を回復させました。
農村でも穀物栽培を増産させ、成果を上げることに成功したのです。
しかし、世界恐慌によってイタリアの発展にもストップがかかりました。そこで今度は海外進出を図るようになったのです。
②ドイツ
第一次世界大戦の敗戦国であるドイツはベルサイユ条約により膨大な賠償金が課せられ、歴史的なインフレも発生し、イタリアと同様に社会不安が増大していました。
ナチスのヒトラーは政権獲得のため、ミュンヘン一揆を起こしますが失敗します。
(ヒトラー 出典:Wikipedia)
その後今度は合法的な手段で政権を奪取すべく、選挙にうって出ました。
ラジオや飛行機などを駆使したヒトラーは、経済的に困窮する一般国民だけではなく、反共産主義を掲げ軍部や大資本家からも支持を得て、1933年ヒトラー内閣が成立するに至りました。
ヒトラー内閣は全権委任法を成立させ、ヒトラーの独裁が始まります。彼は総統(フューラー)と呼ばれました。
ヒトラーはムッソリーニから様々なことを学び、同じような手法を取り入れました。ナチス式敬礼などがそうです。
ドイツ民族の優越を唱え、高速道路の建設や軍事産業により失業者を減らし、失業者も大幅に減らすことに成功。経済的には復興を遂げたのです。
そしてドイツの勢力圏を拡大すべくヒトラーは領土拡大に野心を持ち始めたのでした。
③日本
日本における全体主義はイタリアやドイツのように特定の独裁者が出たわけではありませんでした。
日本は第一次世界大戦に勝利しますが、南洋諸島などわずかに領土が増えただけでした。
大戦中、欧州各国に変わり工場の役割を果たしたため景気がよかったのですが、戦争が終わると元に戻ります。
このため不況に陥りました。その後関東大震災や世界恐慌など経済面で悪い状況が立て続けに起こります。
そこでイタリアやドイツと同じように資源が乏しい日本は海外進出に活路を見出そうとしたのです。
それが軍国主義の台頭を招きます。
総理大臣も軍部をコントロールできなくなってきました。軍部の賛成なく政治を行うことができなくなってきたのです。
政党も解散し大政翼賛会という一つのグループにまとめられました。
第二次世界大戦と全体主義
①民主主義国の対応
1930年代、世界の主要国は三つの勢力に分かれていました。
アメリカ・イギリス・フランスなどの民主主義国、ソ連の社会主義国、日本・ドイツ・イタリアの全体主義国です。
社会主義国は他の2勢力から警戒されており、特に全体主義国家は反社会主義を公然と敵視していました。
民主主義国は全体主義国を利用して社会主義国と対決させようとしたのです。
そのため、イギリス・フランスは全体主義国に対して譲歩する融和政策を当初は取っていました。その最たるものがミュンヘン会談です。
ここでイギリスとフランスはドイツの要求をのんでチェコスロバキアのズデーテン地方のドイツ併合を認めました。
ドイツやイタリアなど全体主義国は急速に力をつけていましたが、その侵略の矛先がソ連に向くのであればやむを得ないと考えたのです。
しかし、これは全体主義国を増長させただけでした。
②第二次世界大戦
引き続き膨張を志向するドイツは1939年ポーランドに侵攻します。
これまで戦争を回避してきたイギリスもついにドイツと戦うことを決意し、全体主義国と民主主義国の間で戦争(第二次世界大戦)が起こりました。
その後ドイツはソ連とも戦争を開始し、敵の敵は味方ということで民主主義&社会主義VS全体主義という構図ができあがりました。
当初は準備万端の全体主義陣営が有利に戦争を進めますが、戦争が長引くにつれ補給力に勝る民主主義&社会主義陣営が逆転するようになりました。
1943年にイタリアが降伏。ムッソリーニはドイツ軍に救出されイタリア北部に逃げますが、1945年に捕まり4月に処刑されました。
その二日後ヒトラーも自殺し、翌月ドイツは降伏します。
8月には日本も降伏し、全体主義国家は全て敗れ去ったのでした。
全体主義と日本
(マニラの視察に訪れた陸軍大将「東條英機」 出典:Wikipedia)
前述のとおり、昭和初期における日本の軍国主義も全体主義と捉えられています。
しかし、全体主義の対義語を個人主義と考えるとそれは決して過去のものではありません。
例えば会社のために自分を犠牲にして働くなど、個人よりも全体が優先されるケースが存在します。
経営者にカリスマ性があり、その集団に所属する人たちが同じような考え方をしていて反対意見が出ない、または出たとしても排除されるようなことがあればそれは全体主義的と言えるでしょう。
まとめ
✔ 全体主義とは、個人の利益よりも集団の利益を優先する考え方のこと。
✔ カリスマ性のある人物が独裁を行い、国家や民族の優位性を主張することで国民を統合していく。
✔ 対外的には侵略を行い、反対勢力には弾圧を加える。
✔ 日本、ドイツ、イタリアで全体主義国家が誕生した。
✔ ドイツとイタリアでは強力な指導者が出て経済発展を果たした。
✔ 対外侵略を志向したため第二次世界大戦が発生するが全体主義国家は敗れた。