【寛政異学の禁とは】わかりやすく解説!!なぜ行った?目的や背景・朱子学や蘭学について

 

今回は、江戸時代に行われた寛政の改革の一つである学問統制『寛政異学の禁(かんせいいがくのきん)』についてわかりやすく解説していきます。

 

朱子学以外の学問を禁じた幕府には、どのような目的があったのでしょうか?

 

また、江戸幕府と朱子学の歴史とは?・・・今回はこれらについて詳しく解説していきます。

 

寛政異学の禁とは

(松平定信 出典:Wikipedia

 

 

1790年(寛政2年)江戸幕府の老中松平定信は、自らが行った「寛政の改革」の一環として、幕府直轄の学問所『昌平坂学問所(昌平黌)』では朱子学のみを勉強し、そのほかの学問を学ぶことを禁じました。

 

これを「寛政異学の禁」といいます。

 

江戸幕府と朱子学

 

 

朱子学以外の学問を禁じた寛政異学の禁ですが、そもそも朱子学とは一体どのような学問なのでしょうか?

 

また、江戸幕府と朱子学のつながりは、初代将軍徳川家康の時代までさかのぼります。

 

①朱子学

中国南宋の朱熹という人物が大成した儒学のひとつです。

 

【人間は肉体と心を別々に持っており、人間は本来、善の心を持っているが、外界からの刺激を受けたとき欲望を生み出してしまう。世の中の悪人とは、欲望のままに行動する人のことをいう。だから、人は努力して私欲をなくし、人格や学問を完成しなければいけない……】

 

という考え方が、朱子学です。

 

この考え方のなかで、上下関係の秩序を大切にしようという考えも存在したので、封建制度の倫理観として大きく影響することになりました。

 

②徳川家康と林羅山

(林羅山 出典:Wikipedia

 

 

江戸幕府初代将軍徳川家康は、若い頃から朱子学を学んでいた林羅山(はやし らざん)の才能を見込み、23歳という若さでありながらも自分の手元に置きました。

 

1630年(寛永7)には3代将軍家光により土地を与えられ、のちの忍岡聖堂となる私塾「先聖殿」を設立します。

 

その後、林羅山は家康・秀忠・家光・家綱の4代に朱子学者として仕えます。

 

朱子学が官学(幕府に認められた正統な学問)として発展するのに貢献し、江戸幕府の基礎作りに大きく影響しました。

 

③徳川綱吉と湯島聖堂

(御茶ノ水 湯島聖堂 出典:Wikipedia

 

 

江戸幕府5代将軍徳川綱吉は、儒学(朱子学)の発展を図るために林羅山が建てた「先聖殿」を移転し、新しく湯島(現在の東京都文京区)に聖堂を建て「大成殿」という学問所を作りました。

 

これが、現在も残されている「湯島聖堂」の始まりです。

 

この学問所は、代々林家の「大学頭」という役職の人が管理していました。

 

④徳川吉宗と実学

江戸幕府8代将軍徳川吉宗はそれまでの将軍とは違い、実学(実際の生活でためになる学問)を大切にするようになります。

 

この時、日本は鎖国状態でしたが西洋の国では唯一、オランダとは交流がありました。

 

オランダと貿易する際、オランダ語の書物も一緒に輸入されてきます。

 

この書物を通じて、オランダの学問「蘭学」が日本に広く知れ渡ることになります。

 

 

吉宗は国内の産業を発展させ、生産力を向上させようという考え方を持っていました。

 

そのため、外国の物産に大変興味がありました。

 

吉宗は誰も翻訳できなかったオランダ語の書物の翻訳を命令。朱子学からは離れ、蘭学など他の学問を重要視するようになりましたす。

 

寛政異学の禁の背景・目的

 

 

1790年(寛政2)江戸幕府の老中松平定信は、「寛政の改革」で寛政異学の禁をおこないます。

 

その背景や目的にはどのような事情があったのでしょうか?流れをわかりやすく解説していきます。

 

①天明の飢饉を乗り越えて『寛政の改革』!

1782年(天明2年)から1788年(天明8年)、老中が田沼意次の時代に江戸四大飢饉のひとつ「天明の飢饉」が起こります。

 

各地で一揆や打ちこわしが起こり、幕府の力は弱まり、田沼意次も失脚へ追い込まれてしまいます。

 

そして、次に老中へ就任したのが松平定信でした。

 

信用を失い、力が弱まってしまった幕府を再建しようと松平定信は幕政改革「寛政の改革」を打ち出します。

 

 

②朱子学以外の学問が盛んに!

江戸時代初期こそ朱子学が学問の中心でしたが、時代が流れるにつれて、徳川吉宗のように朱子学以外の学問を学ぼうとする人が多く現れます。

 

本当の知識とは実践を伴わなければ意味がないという意味の「知行合一」を唱えた実践的な儒学「陽明学」

 

 

陽明学や朱子学を批判し、儒学の祖孔子や孟子の経書(『論語』や『孟子』など)を研究することによってその真意を明らかにしようとする「古学」

 

このいずれにも属さず、自由に学問を研究しようという姿勢を主張する「折衷派」。

 

などなど・・・官学である朱子学以外の学問が盛んになり、朱子学は低迷の時期でした。

 

③学問統制

松平定信は寛政の改革の一環として、寛政異学の禁を行ないます。

 

朱子学者の柴野栗山、岡田寒泉、尾藤二洲らを登用しました。

 

そして、当時の大学頭である林信敬に対して「林家の門人は朱子学以外の学問を学ぶことは禁止!」と通達します。

 

湯島聖堂の講義や幕府の役人採用試験も朱子学だけで行わせ、幕府に忠実な官吏を育てようという考えがありました。

 

また、湯島聖堂を代々管理していた林家の大学頭に、美濃の岩村藩主の三男松平乗衡(のちの林述斎)を養子に迎えさせました。

 

のちに、湯島聖堂は「昌平坂学問所」と名前を改め、林家の管轄から幕府直轄の学問所になりました。

 

この学問統制はあくまで幕府のなかだけのもので、全国の各藩に強制したものではありませんでした。

 

しかし、幕府の動向を見ながら同じように異学を禁じる藩や、幕府の方針に逆らう者、朱子学自体に反対の者もいました。

 

その中で、山本北山、冢田大峯、亀田鵬斎、市川鶴鳴、豊島豊州は寛政異学の禁に強く反対した「寛政の五鬼」と呼ばれています。

 

④朱子学が尊王論へ

江戸幕府の土台となった朱子学ですが、のちに「幕府ではなく天皇を中心にした国づくりをしよう」という考えの尊王論へ影響を及ぼすことになります。

 

 

江戸時代の基礎を築いた朱子学でしたが、皮肉にも幕末の倒幕運動や、その後の明治維新につながったのもまた朱子学の考え方でした。

 

まとめ

✔ 寛政異学の禁とは松平定信が寛政の改革で行った学問統制。

✔ 徳川家康は朱子学者の林羅山を登用し、江戸幕府の基盤を作った。

✔ 徳川吉宗の時代から朱子学以外の学問が盛んになっていった。

✔ 天明の飢饉のせいで一揆や打ちこわしが起こり、幕府の統率力が弱まる。

✔ 田沼意次から松平定信が老中に就任して寛政の改革を行う。

✔ 湯島聖堂(昌平坂学問所)で朱子学以外の学問を教えることを禁止した。

✔ あくまで幕府内だけの学問統制だったが、幕府と同じように異学を禁じる藩や、幕府の方針に逆らう者、朱子学自体に反対の者もいた。