10世紀後半には武士の家が「兵(つわもの)の家」として定着しつつあり、中央貴族の血筋を引くものを棟梁(とうりょう)として武家を形成して力をつけていきました。

 

とくに、経基の子である満仲、さらには満仲の子の頼光、頼信も摂関家に近づき棟梁としての権勢を強めていきます。

 

そのころ、東国でおこったのが「平忠常(たいらのただつね)の乱」でした。

 

今回は、この『平忠常の乱』について簡単にわかりやすく解説していきます。

 

平忠常の乱とは?

 

平忠常の乱とは、1028年に元上総の国司であった「平忠常」が上総(かずさ)・下総(しもうさ)に勢力を広げて起こした反乱のことです。

 

忠常は、上総国、下総国、常陸国を広大な所領を持ちながら、国司の命に背いたり事件を起こすこともありました。

 

そんな中、役人との対立が激しくなり反乱を起こすと、加担する国人もおり規模が拡大します。

 

朝廷は直方(なおかた)に追討を命じ、さらに源頼信を甲斐の国司から追討使に任じると、忠常は戦わずして降伏します。

 

これにより源氏の東国進出が加速することになりました。

 

平忠盛の乱が起こった背景

 

10世紀に入ると、豪族や有力農民が武士と呼ばれ、一族の結びつきから武士団を形成するまでに成長します。

 

さらに国司に反抗するなど武士の力を見せつけることになった平将門の乱藤原純友(すみとも)の乱はのちに大きな影響を及ぼしました。

 

①武士の成長

10世紀になると、地方で成長した豪族や有力農民が、勢力を広げるために武装して戦うようになります。

 

兵と呼ばれるようになり、一族や郎党などを率いて互いに争ったり、国司に反抗することもありました。

 

さらに畿内付近では、成長した豪族が朝廷の武官になったり貴族に仕えるものもでてきました。

 

兵や武士と呼ばれ、滝口の武士として宮中の警備にあたったり、貴族の身辺の警護にあたりました。

 

これらの兵たちは交流しながら各地に結びつきをつくると、旧来の大豪族や任期終了後も土着した国司の子孫などを中心として武士団を形成します。

 

とくに東国での武士団の成長は著しいものがありました。

 

②平将門の乱

桓武天皇の曽孫にあたる高望王(たかもちおう)から平姓を与えられた桓武平氏は、東国に根を下ろして勢力を広げます。

 

さらに高望王の孫の平将門は、親族間の抗争に勝つと勢力を伸ばしていきました。

 

 

(平 将門 出典:Wikipedia)

 

 

常陸の国司に反抗していた藤原玄明(はるあき)と手を結ぶと、939年に反抗は反乱に発展し、将門は常陸の国府を襲って国印を奪います。

 

すぐに下野や上野まで攻略すると、東国の大半を征服してしまいます。

 

こののち将門は親王を称することになりますが、朝廷が藤原忠文を征東大将軍として送るも、平貞盛が藤原秀郷などの協力を得ながら将門の本拠を襲い倒したことで乱は収束しました。

 

 

③藤原純友の乱

もと伊予国の国司として海賊を討伐していた藤原純友でしたが、936年ごろになると伊予国日振島を本拠に海賊の頭目となります。

 

939年には、純友は藤原文元に摂津国を襲撃させるなど反乱に発展しました。

 

朝廷は、平将門の乱と重なったこともあり衝撃を受けますが、将門の乱が収束すると朝廷は純友討伐のために積極的に動き始めます。

 

藤原忠文を征西大将軍に命じますが、その前に小野好古(よしふる)や源経基が純友を討ちます。

 

 

(小野好古 出典:Wikipedia)

 

 

これらの乱から朝廷は軍事力の低下と武士の実力を思い知ることになり、その結果、積極的に武士に奉仕させるようになります。

 

こうして、諸国では国司の館を武士が警護したり、国司が主催する行事や神事にも武士が奉仕する体制が生まれました。

 

平忠常の乱の発生と経過

 

忠常の国司との対立がしだいに大きくなり、三ヶ国におよぶ乱となります。

 

朝廷は追討使を任命して鎮圧を試みますが、長期戦となり新たに追討使を任命し直しての収束となりました。

 

①乱のおこり

平良文、忠頼、忠常と三代にわたり関東で勢力を伸ばし、忠常は上総国、下総国、常陸国におよぶ広範囲の領地を手にします。

 

しかし、忠常は国司の命に背き税を納めないなど、好き勝手に振る舞っていました。

 

忠常は、1028年に安房国の国府を襲うと、安房守平維忠を焼き殺す事件をおこします。

 

さらに上総国の国衙(こくが)を占領すると、忠常に加担する上総国の国人たちが増えて、上総国、下総国、安房国の房総三ヶ国に広がっていきます。

 

②追討使任命

このようすが朝廷に伝わると、追討使を送るべく候補者があげられました。

 

藤原実資(さねすけ)は、常陸介在任中に忠常を家人としていた源頼信を推薦。

 

 

(源 頼信 出典:Wikipedia)

 

 

賛成者は多かったものの、後一条天皇検非違使(けびいし)平直方と中道成通を追討使として派遣します。

 

これは、関白藤原頼通の抜擢によるものでした。

 

直方は頼通の家人であったため、自身の派閥と敵対関係にある忠常を大義名分をもって討つために頼通に進言したのではないかとされています。

 

同じく1028年の8月、任命から40日以上経ってから平直方と中原成通は兵を率いて京を出発。

 

翌年2月には、直方の父である維時が上総介に任命され、源頼信は甲斐守に任じられ、本格的に討伐が始まるかに見えました。

 

③追討使交代

追討使の中道成通は、関東に向かう途中で母の病を理由に兵をすすめないなど消極的な姿勢を見せます。

 

積極的に討伐しようとする直方とは意見が合わず、討伐軍は苦戦を続け、乱をおさえるには至りませんでした。

 

これを知った朝廷は、諸国へ忠常追討の命を下して援軍を送り込みますが、乱を鎮圧することはできませんでした。

 

同年12月、ついに朝廷は中道成通を追討使から解任してしまいます。

 

10303月には、忠常は安房国の国衙を襲ったあと上総国で要害に立て篭り抵抗を続けます。

 

これにより乱はさらに長期戦となり、戦場では餓死者がでるなど深刻な状況に陥ると、ついに朝廷は直方を呼び戻し9月に甲斐守になっていた源頼信を追討使に任じます。

 

④乱の収束

追討使となった頼信が1031年に上総国へ向かうと、忠常は出家し、二人の子と従者を連れて自ら出頭して降伏します。

 

のちの同年6月に京へ連行される途中で病没すると、斬首され京で梟首とされたものの首は親族に返されました。

 

また、二人の子も罪を許されます。

 

直方には長期戦になり疲弊しても屈しなかったのに対し、頼信には自ら降伏したのは忠常が頼信の家人であったからではないかとされています。

 

なお、この乱の平定により、頼信の配下となる関東の平氏が多く、源氏が東国で勢力を広げていく一因となりました。

 

平忠常の乱のその後

 

平忠常の乱は、平直方が退き源頼信により鎮圧されたことから、関東の平氏が頼信のもとに集まり源氏は東国での基盤をつくることになります。

 

こののち、さらに前九年合戦がおこったことにより、源氏の東国進出を決定づけます。

 

前九年合戦は陸奥の豪族阿部氏と国司との争いがもとで、源頼信の子の頼義が赴くと一旦阿部氏は服します。

 

しかし、阿部氏が再び乱をおこすと、頼義とその子の義家が東国の武士を率いて阿部氏を滅ぼします。

 

その後、12世紀中頃には平氏が盛り返し全盛期を迎えますが、12世紀末には源平の争乱(治承・寿永の乱の末に源氏が平氏を滅ぼすことになります。

 

 

まとめ

 平忠常の乱とは、1028年にもと上総の国司であった平忠常が上総(かずさ)・下総(しもうさ)に勢力を広げて起こした反乱のこと。

 平将門の乱や藤原純友の乱により武士の力が認められていったころに、平忠常は関東で国司と衝突し乱は拡大していった。

 粘り強く抵抗する忠常であったが、追討使の平直方が退き源頼信が改めて追討使に任命されると、二人の子を連れて自ら出頭し乱は収束した。

 乱ののち、関東の平氏勢力は源頼信のもとに集まり、源氏が関東での基盤つくることになった。




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